建築遺産のlog!

世界中の建物に行けるといいな

No.182⌒★【佐倉市】佐倉城と城下町

【建築遺産のlog!】第182号

2018年3月30日

 

佐倉市内をどんどん進みましょう。

 

佐倉市内の観光スポットは市内全体に散らばっている感じで、歩いていくとくったくたに疲れると思います。

 

佐倉駅 ⇔ 堀田邸 ⇔ 佐倉順天堂 ⇔ 佐倉高校 ⇔ 武家屋敷 ⇔ 佐倉城

 

主な観光地はこういったところですが、このすべてが1㎞ずつ離れている感じ。訪れた先でも歩き回るとすれば、軽く10kmぐらいのウォーキングになるかもしれませんね。

 

これまで堀田邸→佐倉順天堂→佐倉高校と回って来たので、次は武家屋敷です。佐倉高校から武家屋敷までは2kmぐらい離れていたかな…。

 

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武家屋敷

 

武家屋敷の入館料は210円。

 

堀田邸と佐倉順天堂と合わせて3館回れる券もあって540円。

 

安いですね。歩いて回れば佐倉観光はほとんどお金がかかりません。

 

 

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武家屋敷は3つの建物からなっています。

 

・まずは受付のある、旧河原家の住宅。

県指定文化財。

 

受付のない住宅から回ることもできそうですが、やはり受付でお金を済ませてから回りましょう。

 

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こんな照明、江戸時代にあるかー、と言いたくなる家ですが、やはり武士の家だけあって、質素な住宅です。

 

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・そのお隣、旧但馬家住宅。

こちらも茅葺。

 

市指定文化財になっています。

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玄関は広くとられているので上級武士の家なんでしょうか。

 

お客さんは玄関を上がって、すぐに壁に突き当たるので折れて左の座敷に通されます。

 

壁の奥は「仲の間」で主人の書斎兼応接間なんかに使われたそうです。

 

書斎と玄関の間には障子窓が付いていて、お客さんが来たら、

書斎にいる主人がガラガラガラ、と小さい障子をあけて「よう、八兵衛、来たか」などと言いながらお客さんにあいさつでができるようになっています。

 

仲の間は「仲」という字から、居間と座敷の中間のような部屋。

 

右奥がプライベートルームである、居間になります。

 

入って右側は仲の口。

 

ここもプライベートな空間の、土間などの部屋から座敷へ行く出口に位置する部屋なので、仲の口。

 

ここから食事を持っていったり接客に繰り出して行ったんでしょうね。

 

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・旧武居家の住宅。

 

ここだけ茅葺ではなくて金属板で屋根が覆われてしまったからか、文化財指定はありません。

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文化財ではないのでやりたい放題な感じで、蛍光灯がギラギラ光っている資料館のようになっていました。武家屋敷のことを知りたい時はここに来ましょう。

 

畳の縁が無いので、3棟の中では一番格が落ちる住宅なのかもしれませんね。

 

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元々は茅葺だっただろうに、金属板で覆われてしまった、武居家の屋根の頂部。

 

不思議なデザインをしていますが…

 

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元々はこんなふうだったはずなんです、たぶん。(但馬家住宅)

 

武居家のは似ても似つかぬ風にデフォルメされてしまいましたね。

 

あの横ルーバーみたいなデザインはいったいどこから来たんだ…。

 

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きれいに整備されたひよどり坂

 

武家屋敷があるあたりから、佐倉城へ向かう道にあり、言わば武士たちの通勤経路ですね。

 

竹に囲まれて美しい通路。ほとんど歩いている人はいませんでした。

 

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途中、休憩所なども設けられています。

 

ひよどり坂は、200〜300mぐらいの通路ですが、武家屋敷からひよどり坂あたりまでの空間だけ、古い雰囲気で少し江戸時代を感じられます。

 

佐倉城

 

・佐倉城のれきし

 

この辺りを支配していた千葉氏26代目の親分千葉親胤が、佐倉城を造っていたところ途中で暗殺されてしまったため、工事はストップしてしまいました。

 

その後、千葉氏29代目の親分千葉邦胤が佐倉城建設工事を再開しようとしていたところ、やはり暗殺されてしまったので、工事はストップしてしまいました。( 'ω' ;)

 

その後北条氏の影響下にあった千葉氏は、豊臣秀吉の小田原征伐と共に滅亡していき、佐倉城は築けぬままとなってしまいました。

 

この佐倉城を築いたのは、徳川の時代になってから、徳川秀忠の家老だった土井利勝によって建てられたものです。

 

その後石川氏→松平氏→堀田氏→松平氏→大久保氏→戸田氏→稲葉氏→松平氏と城主が次々と移り変わって、最後は堀田氏が城主となって幕末を迎えました。( 'ω' ;)

ずいぶん激しい移り変わりだこと…。

 

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佐倉城は明治新政府の廃城令(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)によって廃城されてしまい、さらに陸軍施設も置かれたので城の名残はほとんど何も残されていません。

 

これは空堀のあと。

 

今ではなだらかな窪みがあるだけで、とても敵を防げそうにはありませんが、

 

江戸時代にはもっと立派な土塁が築かれていたはずです。

 

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そして本丸あと。

 

石垣の姿は見えず、佐倉城はほとんど土塁で形成されていたんですね。

 

そのせいか、今では大草原になっていて、バトミントンをしたりキャッチボールをする親子連れののんびりとする場所になっています。

 

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広い城内の敷地は、その敷地をふんだんに使った国立歴史民俗博物館が建っています。

 

設計は芦原義信。博物館はゆったりとしたアプローチですね。

 

ゆるやかな勾配で、博物館へ吸い込まれるように導かれていきます。

 

本丸から少し離れたこの場所は、堀の内側ですが、侍屋敷や調練場などがあった場所で、丘の上の平坦な場所でした。

 

その昔は陸軍の駐屯地になっていた場所です。

 

 

複雑な歴史を持つ佐倉城には歴史民俗博物館はふさわしい建物なのかもしれません。