建築遺産のlog!

世界中の建物に行けるといいな

No.180⌒★【太田市】【鎌倉市】の縁切寺!満徳寺と東慶寺

【建築遺産のlog!】第180号

2018年3月25日

 

高山彦九郎邸跡

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太田市で生まれた高山彦九郎の家の跡。現在は畑となっていました。国指定史跡。

 

東武伊勢崎線細谷駅からまっすぐ南に行ったところにあります。

 

高山彦九郎は勤皇思想で幕府の監視まで付いていた人物。

 

薩摩藩にも頼れず、1793年に自刃して亡くなりました。

 

1793年と言えば、幕末までまだまだ先。高山彦九郎は世に出るのが早すぎたのかもしれません。

 

もしかして、

幕府の敵、高山彦九郎の住居なぞ残しておいたら勤王思想の奴らの巣になるかもしれんから取り壊して跡形もなくしておけーという、幕府のお達しなんでしょうか。

 

関係はないかもしれませんが、周りは住宅でここだけ畑なんです…。

 

旧世良田町役場

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世良田東照宮の近く、八坂神社の南にある、旧世良田村役場です。

 

建物、門ともに国登録有形文化財。

 

門は大谷石の正門で、年月が経ってさすがにボロボロ。

 

建物の外壁にも一部大谷石が使われています。

 

外壁の上、パラペット部分は「ロンバルディア帯」というデザインが使われているそうです。

 

ロンバルディアはイタリアの州で、都市でいうと、ミラノがある州です。

 

そこの建築家が考案したもので、アーチが連続したようなデザインになっています。それがロンバルディア帯。

 

 

門も建物も昭和の初めの建築。

 

その後世良田村は分割され、今の伊勢崎市と太田市に分かれてしまい、村役場としての役目を終えました。

 

縁切寺その1:満徳寺

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旧世良田村役場や世良田東照宮のある一帯から東南にしばらく行ったところ。

 

縁切寺満徳寺があります。

 

鎌倉の東慶寺とともに江戸時代を通じて、というより過去から現代までたった2つしか存在しない縁切寺のひとつ、満徳寺(宇宙に2つのうちの一つ?)。

 

満徳寺は徳川家庇護の下存続し、幕府瓦解と共に寺の命も終えました。

 

ここにあるのは、お寺ではなくて、復元された「満徳寺の遺跡」なんですね。(群馬県指定史跡)

 

よって、住職も僧もいません。

 

いるのは資料館のスタッフのみです。

 

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誰もいない満徳寺復元本堂の中に入ることもできます。

 

新築感満載の何もないたくさんの部屋。

 

お寺というより武家の館みたいですね。

 

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隅には歴代住職のお墓がありました。

 

このタイプのお墓は「無縫塔」と言い、僧のためのお墓に使われることが多いようです。

 

中世に中国の宋から伝わってきました。

 

無縫塔はその名前の通り、塔身が縫われてなくて、すりこぎ棒のような形をしています。

 

そのため卵塔とも言われます。

 

まあ、縫われてる塔って、どんなんなんだ、と思いますけどね…。

 

 

スイッチのつまみのような形にも見えます。

 

大きい無縫塔から小さい無縫塔までたくさん並んでいました。

 

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縁切寺資料館には、縁を切りたい人用と、円を結びたい人用の札流し用の便器が置いてありました。

 

縁を切りたい場合はいいけど、縁を結びたい時も、これを使うんですね…。

 

そして、汚水配管はきっと奥で繋がってますよね…。

 

縁を切りたい人と、結びたい人の思いが、下水の中でひとつになるんですね( ŏㅁŏ;)

 

何だか腑に落ちないものを感じながら、資料館を後にしました。

 

ちなみに、資料館は映像あり、たくさんの資料ありでなかなか見ごたえがありました。

 

縁切をした人たちの出身地なんかもあって、結構遠くから縁切を目指して来る人たちもいるんだなあ、といろいろと興味深い展示もたくさんあります。

 

縁切寺その2:鎌倉東慶寺

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そしてここからは鎌倉の縁切寺東慶寺!

 

北鎌倉駅から歩いてすぐです。

 

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太田市の縁切寺満徳寺とは違い、現役のお寺だけあって、風格ある寺内です。

 

満徳寺は資料館として、東慶寺は美しい観光地や縁切り寺のなんとなくの雰囲気を味わえる場として訪れる価値があります。

 

群馬と神奈川で遠いけど、両方訪れると縁切り寺のことがよく感じられると思います。

 

 

東慶寺は、たくさんの花が咲くことでも有名で、花の時期はお寺の中はカメラを持った女性でいっぱいになることもあります。

 

女性がいっぱいなのは、花が多いからと、他に理由があるんでしょうかねえ。縁を切りたいとか…

 

引きつける何かがあるようでたくさんの女性がウロウロしていました。

 

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こちらが東慶寺の歴代住職の墓。

 

正面の仏像付きは釈宗演という僧で、東慶寺中興の祖といったところらしいです。明治時代頃に活躍した僧。この方は尼僧ではなくて男僧です。

 

その右の方にはさっき覚えたばかりの無縫塔のスイッチみたいな墓も見え隠れしています(*‘∀‘)

 

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変わった石。

 

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歴代住職の墓の横のやぐらにある用堂尼の墓。

 

護良親王の妹である用堂尼は、足利尊氏によって暗殺されてしまった兄のために入寺し、その菩提を弔いました。

 

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そしてこの東慶寺を開山した超重要人物、覚山尼の墓です。

 

覚山尼は元寇のときの執権・北条時宗の妻。

 

夫のDVに苦しむ女性を救済するかたわら東慶寺を開山し(開基は北条貞時)、後に縁切寺となっていきました。

 

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ここは、住職の墓だけではなく、他の墓も見どころになっています。

 

アプローチがとても美しい桜塚は永代供養墓で女性ならば入ること(予約)ができるようです。

 

ほんとに女性らしい、美しい墓ですね。

 

アプローチの先は神々しく光り輝いていました。

 

今まで見たお墓の中で、一番美しいお墓かもしれません。

 

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作家の赤瀬川原平さんが生前墓として、建築家藤森照信氏の設計で作った墓。

 

赤瀬川原平さんは2014年に亡くなり、予定通りこのお墓に眠っています。

 

墓は、昔は石がなくて土だんごみたいなものだったと思いますが、形が崩れてきたのか石で周りを囲んでいます。

 

屋根上緑化のプロの藤森氏らしく、土だんご墓の上には盆栽の松のようなものが乗っています。

 

壁もなく、土敷きで荒々しい藤森さんらしいできばえの墓だと思います。

 

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隣のお墓も藤森照信氏設計のお墓だったと思います。

 

花立ては地面に突き刺してありますね。

 

ここもしきりが無いこざっぱりとしたお墓です。

 

 

他にもHPを見ると、陸上五輪金メダリストの墓とか哲学者和辻哲郎の墓とか小説家・詩人などたくさんの有名人の墓があり、一度見に来てはいかがでしょうか。

 

これからの季節は花も美しいと思います。