No.112⌒★塩山の屋敷【甲州市】甘草
塩山駅前には、甘草屋敷と呼ばれる建物がありました。
塩山駅徒歩0分(30秒ぐらい)で行ける、重要文化財ですが、訪問している人は皆無でした(´Д`)なぜだろう…。
甘草屋敷へはたったの300円の入館料で入れますが、建物に入らない場合は無料で、裏には図書館もありました。
甘草屋敷というだけあって屋敷前には甘草がたくさん植えられています。(見分けがつかんがたぶんあれもこれも甘草)
この甘草屋敷の主、高野家は江戸時代に薬用としての甘草を幕府に納めたとのことで甘草屋敷と呼ばれました。
ただ、聞くところによると、この甘草たちは何らかの病気で花が咲かなくなってしまったようです。
甘草屋敷を名乗る資格はないですね…(-"-)
甘草とはこのように、流木をただ集めて来たみたいなカンゾウの根を乾燥させてすりつぶしたりエキスにしたものを甘味料や薬用として用います。
現在、使われている甘草のほぼ全量は輸入品。
その多くは中国からの輸入なので摂取するのは少し不安です。
日本での動きとしては、
三菱樹脂という会社が2010年頃、甘草を日本で栽培するよー、と宣言して、
2015年頃、事業化の見込みはたったよー、と報告があり、その後音沙汰がないのでまだ事業化されてないんでしょう。
それだけ甘草を作るのは難しいものなのです。
甘草屋敷でサービスとして頂いた甘草茶と、甘草屋敷に生った枇杷。入館料たった300円なのに…。
お昼ご飯を食べそびれて行ったんですが、このメニューはお腹がもっと空く組み合わせです…(´Д`)
甘草茶は甘味料として使われるから甘いと思いきや、普通のお茶の味でした。
言われればほのかに甘いかな、と思うぐらい。
甘草は砂糖の50倍もの甘さがある成分が入ってるそうですが、お茶ではその実力は発揮しません。
甘草屋敷の客間。
ここで誰もいないひっそりとした中で、甘草茶を頂きました。
和洋混ざったような電灯。
二階は養蚕のために使われた階です。
板が渡してありますが、ギシギシ言って床が抜けそうで少し恐怖を感じました。
2階からは甘草畑と、その向こうに塩山駅が見えます。
駅前にしては、結構広い敷地です(裏にも広い敷地が広がってる)
草生す東門。
甘草屋敷は大きく、茅葺だったころは葺くのは大変だったことでしょう。
日本家屋としては珍しく、3階建てになっています。
真壁の、木の風合いが美しい建物です。
塩山駅の反対側にある、於曾公園。
この公園も、昔は屋敷(於曾屋敷)だったところです。
今は、あまり手入れされてませんが、花や、ぶどう棚が置かれている園芸公園になっています。
このように、内堀・外堀がある砦みたいな屋敷だったとあります。
ここの主であった於曾氏は、甲斐武田家の有名な板垣信方の板垣家を継いだ家で、その後ずっとたどっていくと、板垣退助に繋がります('Д')。
板垣信方ー板垣信憲(板垣家は一時断絶)ー板垣信安(於曾家が板垣家を継いで再興)・・・・板垣退助、、という血の流れですが、板垣家はいろいろ流転の末、板垣退助の時代は土佐藩士となっています。
歴史はどう動くのかわからないものです。
屋敷の周りには今も堀の名残なのか、水路が堀のように流れていました。
この道は猫がたくさん。
屋敷への入り口?
入ろうとしましたが、
・ポストがあり、
・表札がある
ので、入ってはだめな門なんでしょう。
まだまだどなたかの屋敷として歴史は続いているようです。
No.111⌒★塩ノ山と共にあるまち【甲州市】
新宿から1時間半ほど中央線に揺られて辿り着く、塩山駅周辺は今は甲州市ですが昔は塩山市と呼ばれていました。
旧塩山市は駅の北西方向にある、塩ノ山からその名を付けられました。
駅から少し北へ向かうと現れる塩ノ山。
駅方面からだとビルが視界を遮っていて見えませんが、
昔はどこからでも見える、ぽつんと立っている山で人々に愛されてきたのでしょう。
塩ノ山は、
「四方から見える」からそれが塩ノ山となったそうです('Д')。
まあ昔々岩塩が採れたから塩ノ山という説もあるようですが、どちらが由来かは今となってはわかりません。両方?
確かに、周りには高い山が無いので、四方から見渡すことができる山という由来は納得できる感じでした。
塩の山の麓には向嶽寺があります。
杉並木の向こうに見える、中門は重要文化財。
このあたりの寺社の多くは、寺社の周りに高い杉が植わっているのが特徴で、平地でもまるで防風林のように寺を取り巻いています。
この道をずっとまっすぐ伸ばした先には恵林寺の山号でもある乾徳山という山がありますが、
振り返ったずっと先は、富士山に繋がります。
昔から火災を繰り返したようで、この中門だけが残され、重要文化財となりました。
文化財のため、開かずの扉。
中門を迂回して通り過ぎると池が現れ、屋根付きの橋がかかっています。これも通行不可(つω・`。)。
橋から、中門の方向が富士山の方面。
池の向こうにわずかに見えるのが仏殿です。
池は藻で埋め尽くされているわけではなく、きれいな池でした。
塩ノ山からの湧水なのか、寺や周辺の集落には水路が通っていて、たくさんのきれいに見える水が流れていました。
そのたくさんの水のお陰で、池は良い水質が保たれているんですね、きっと。
仏殿は鎌倉円覚寺舎利殿の禅宗様のような建物ですが、円覚寺舎利殿と比べれば背の高さが全然違います。
外壁の色がいい色合いです。
まあ、そんなお寺でした。
なんだか顔の長い大仏…。
駅の近くには明治時代に建てられた中央区区民会館があります。
国登録の有形文化財。明治12年築の、学校施設だった建物です。
近くの案内板にはその後、警察署、図書館と経て、区民会館となった、と書き記されています。
各時代で改修が加えられて、元の姿そのままとは言えませんが、藤村式と呼ばれる山梨県に多数存在した西洋建築の一つです。
藤村式は、明治時代の県令(県知事)だった藤村紫朗の名が使われた西洋建築様式(擬洋風?)で、
学校が主で、他にも役所など公共建築が100棟以上、建てられました。
そんな一時代を築いた建物なんですね。
夕方だったのでひっそりとしていた中央区区民会館は、たくさんあるツバメの住宅が夕ご飯に大忙しでした。
門ではツバメ同士が喧嘩してて通してくれませんでした…(´・д・)。
軒が少ない藤村式の西洋建築は、日本の気候、特に山梨のような夏は高温多湿、冬は雪もたくさん降るこの地域にはあまり馴染めず、次第に建てられなくなっていきます。
それでも、この深い雨除けのあるここの玄関だけは営巣にもぴったりだったんですね。
No.110⌒★白石のサヴォア邸【白石市】
白石市の当信寺近くを歩いている時に、ふと通りかかったこの建物。
なんとなくサヴォア邸に似ているなあ、と思いながら通り過ぎました。(住宅じゃないけど)
サヴォア邸とは、こういう建物。
見れば見るほど同じ…(´Д`)
ピロティの感じといい、連続窓の感じと言い、2階建てなところ、屋上に何かあるところ。
なんなんでしょう、この建物。
設計はアモルフの竹山聖氏によるものです。
サヴォア邸(もしくはサヴォイア邸あるいはサヴォワ邸)を設計したル・コルビュジエは、世界でも屈指の知名度と人気を誇る建築家です。
近代建築では影響力はトップかもしれません。
そのル・コルビュジエは、近代建築五原則、というものを提唱しました。
五原則とは、
・ピロティ
・屋上庭園
・自由な平面
・水平連続窓
・自由な立面
の五つですが、そのうち自由な平面と自由な立面に関しては、現在はほとんどの建物が達成していると思います。
この白石市の謎のサヴォア邸(実は白石市ふれあいプラザ)も、自由な平面・立面に加え、ピロティ、水平連続窓についても達成しています。
屋上も、グーグルマップを見る限り、なにかしら庭園というか小広場として利用している形跡があります。
つまり、白石市ふれあいプラザは、コルビュジエが提唱する近代建築の五原則も達成した、サヴォア邸に似た建物なんですね…。
コルビュジエは、スロープを多用することでも有名ですが、この建物にもスロープらしき施設がはっきりと見えます。
窓を連続窓とするために、柱は少し奥に設置。サヴォア邸と同じく純白な外壁。ピロティを車寄せに利用しているところも一緒。
サヴォア邸は広大な敷地になぜか二階建てのピロティ付きの建物になっていますが、こういう建物はもともと都市向きの建物なんです。
白石市の中心部にある、ふれあいプラザの方がしっくりきます。
まあ、ただ、そんな建物でした…(何の建物かは知らん)
★★
さて、
次の日、車を借りて白石市の郊外の方を走っていると巨大病院が現れたんですね。
公立刈田総合病院というようですが、
これも結構サヴォア邸なのでは…(´Д`)?
ピロティ、及び水平連続窓っぽいデザインは一緒。白いところも一緒。
ピロティが車寄せになっているところも一緒。
ただ、サヴォア邸に似せなければ、という思いが強いのならば、実は自由な立面(ファサード)ではないのかもしれません。
設計は芦原太郎、北山恒、堀池秀人のトリオ。
芦原太郎、北山恒両氏は前々回、白石第二小の設計で出てきた人で、
堀池秀人氏は、前回白石市文化体育活動センターの設計で出てきた、白石市ではおなじみの人物です。
上の方には緑が見えるので、屋上庭園もしっかり完備。
やはりこれもサヴォア邸のオマージュ的建物かもしれません。
ちなみに病院は朝早く行き過ぎたせいで閉まっていました(´Д`)。
スロープがあるかどうかは不明です。
天井まで届かない小部屋を造っていて、奥行きの広さ、天井の高さを感じさせる建物です。
以上、
No.109⌒★鉄骨の塊の建造物【白石市】
東口には立派なロータリーがありますが、改札口はなぜかないため、ひと気がまるでないゴーストロータリーになっています(一組のカップルが横になってるだけ)。
東口の方には川が流れていて、あとは悠々とした住宅街が広がっている地域。
数キロ先で白石川に注がれる、その川には橋がかかっていて、
その姿は、あばら骨の化石のようです。
首長竜の化石のよう。
しらさぎ橋という名前のようです。
この橋は、しらさぎの姿を表していたんですね…('Д')
そういわれれば、何となくしらさぎに見えて来なくも無いかもしれません。
震災で落ちて来た天井材、みたいな壊れた感じもする橋ですが、
1本1本をよくよく見ると、鉄骨にトラス(三角形)がしっかりと組まれていて、空へ見事に飛び立つしらさぎの強い翼の姿を表わしています。(そもそもしらさぎの形だからしらさぎ橋と名付けられたわけではないかもしれんが…)
これを設計したのは阿部仁史氏(阿部仁史アトリエ)で、1994年32歳の頃でした。
宮城スタジアムも設計している、有名な方ですね。
市営鷹巣住宅。設計組織ADHの設計?
を、川沿いに横目に見ながら、新幹線白石蔵王駅の方へ向かいます。
白石蔵王駅を通り過ぎた向こうに、白石市文化体育活動センターホワイトキューブがあります。
堀池秀人都市・建築研究所の設計。
ファサード(正面)は普通ですが、内部は鉄骨の塊です。
中に大きな卵型のものが浮かんでいますが、完全に通行止め状態。
念のため次の日も行ってみましたがやはり通行止めでした。
あそこに、何かがあるんですね…見られてはならない何かが…。(廃墟?)
文化体育活動センターというだけあって、フィットネスクラブみたいなスペースが端にあります。
「今日のご案内」というホワイトボードを見てみると、
ホール:コスプレ撮影会
リハーサル室:ヒップホップダンス教室
アリーナA:書道会
会議室2も書道会……などという予定になっていました(´Д`)。
文化体育活動センターはどちらかというと文化活動が優勢なようです。
ホワイトキューブは巨大な施設にも関わらず、人の気配はあまりありません。
書道展覧会もほとんど人を集めていない様子なので、ヒップホップで疲れたキッズがひとりたたずんでいるだけでした。
空中歩廊のスロープ。
その向こうには無粋に白い壁がいきなり立ち上がったりしていて、これはいったいどういう計画だったんでしょう(白い壁の向こうは書道会の展示をしていた)。
卵型の何かなど、見応えはある建物ですが、「箱モノ」という言葉がピッタリ過ぎる、赤字の気配濃厚な建物でした。
No.108⌒★白石とアテネ【白石市】
阿梅姫のお墓がある当信寺の裏には、
変わった形のトイレがある公園がありますが、
さらに向こうには、
塀もない、いまどきオープンな小学校があります。
1997年の(日本建設業連合会の)BCS賞受賞の小学校、白石第二小学校。
BCS賞は、建築主・設計者・施工者の三者の協力により生み出された優秀な建物を賞するもので、
BはBuilding Owner、建築主のことかな?
CはConstruction、施工でしょうか。
Sは…設計(;´Д`)?…日本語?
語源は謎ですが、何かしら優秀な建物です。
1996年に竣工しました。
雪が降っても雨が降っても使える半屋外の一階の通路(兼遊び場)。
夏の暑い日も涼しく外で過ごせそうな気もします。
このあたりの地域は夏はフェーン現象で暑くなり、
冬は吾妻おろしが吹き荒れて、豪雪は降らないものの寒い気候なので、
三方が壁で囲われた外部廊下は有効的なのかもしれません。
校舎から繋がっている多目的スペースの棟も変わった形。
山形の屋根で雪を落としつつ光だけはトップライトで確保するんですね。
多目的スペースは数列、こういう棟が連なっていて、全校生徒が同時に利用することもできそうな規模です。
とにかく、広い小学校なのです。
白石市の情報センター・アテネがあります。
なかなかの突き出しっぷり。
設計はUPMの八束はじめ氏です。
人はなぜ、こういう建物を造るのでしょうか。
(上:白石市アテネ 中:川口市ますいいハウス 下:千葉市ホキ美術館)
どれもこれもミサイルの発射台のような形をしています。
これらの建物は、男のロマンなのかもしれません。
ちなみに上は横浜港大さん橋に最近やってきた地対空誘導弾ミサイルPAC3の画像です。
横には護衛艦たかみな ………たかみなが停泊していました。
あっ、何度も間違えてしまう……護衛艦たかなみです。
アテネの裏の玄関もすこし張り出してます…(*‘∀‘)
情報センター・アテネはアテネと同じ緯度にあるから名前がアテネだそうです。
白石市は北緯38度0分、アテネ市は北緯37度58分……わずか2分差
緯度が1分違うと1.85㎞違うそうなので、1.85㎞×2⁼3.7㎞しか離れていません。3.7㎞ならまだきっと白石市内ですね。
どちらかというと南国のイメージがあるアテネと、どちらかというと北国のイメージのある白石市が同じだとは思えませんが、それでもアテネでは雪が降ることもあるそうです。
東京都は、
地中海に浮かぶ楽園クレタ島や、暑いときは40度を超えるテヘランなんかと同じぐらいの緯度なんですね…(;´Д`)どうりで暑いわけだ。
アテネの中に入ると、劇場のような大階段があって、
そこでは白石キッズがふたり、夢中でカードゲームに興じていたので写真は撮らずにさっと帰りました…。
No.107⌒★白石城と門と阿梅姫【白石市】
白石に着いて、
うーめんを食べたならば、
まあまずは、お城にでも行ってみましょう。
白石市内は徒歩で旅するのにちょうど良い町です。
白石城もどこから湧き出したのか、外国人の姿を多く見かけます。
他に観光地がなくて、「白石」という名前を知らない日本人も多いというのに、どこで聞きつけてくるんでしょう。
白石城は、伊達政宗の有名な部将、片倉小十郎景綱が関ケ原後に城主となったお城です。
また信長の野望でステータスを見てみると、
片倉小十郎景綱は統率87、武勇77、知略92、政治86。特に知略に優れ、軍師として、謀略なども担当していたと言われます。
本丸へ向かう道は、やたらと狭いんですね…。
人が全くいないのも気にかかります。
しかもかなり大回りして歩かされる道。守備が堅固ということなんでしょうか。
右は高校、左に石垣で見えない本丸。
少し歩くと、やっと現れました。
東日本大震災の時は、壁がはがれたりした被害はありましたが、なんとか持ちこたえました。
外国人たちは、ここの草むらでごろごろしたりのんびりしています。何千キロも旅して何しに来たんだ…。
入館料300円を払って、中へ入ります。
最上階へ登ってみると、、
本丸の入り口はこっちでした…!(´Д⊂ヽ
少し奥まったところにある小さな門に気付かずに、ずっと右手のほうの小道からぐるっと大回りしてきただけ。
どうりで誰もいないはずだ…。
お城自体はあまり見どころがなくて、太い梁とか、わずかに展示してある甲冑とかを見て回ります。
白石城の周りには、城にまつわる建物がいくつかあります。
白石駅から右方面に行った、
延命寺の門は、白石城の厩口門だったもの。
左右に付いている花頭窓はなかったと思うので、当時の姿そのままというわけではないと思います。
白石駅から左方面に進むとある、
当信寺の山門も、白石城の東口門だった門です。
両脇に同じく花頭窓を付けられ、
二階にある開口部は花頭窓の一種の眼象窓と呼ばれるそうです。
眼象とは三方という供物を乗せる台の三方に穴が開いている、その穴の形のことを眼象というそうですが、そのことでしょうか。
眼象とは、宝珠のこと。
宝珠は火炎のように燃え上がった珠のことで、欲しい宝物を何でも手に入れられる珠です(*‘∀‘)。
その眼象窓が大きく開いているのは、そこに太鼓を置いて時刻などを知らせていたためで、
つまり太鼓門となっていました。
夏前なのに紅葉が美しい当信寺の本堂。
裏には、
阿梅の墓と言われる墓があります。
いくつか並んでいますが、削って飲むと虫歯が治るとの言い伝えから、墓石が削られてしまった一番左の墓がおそらく阿梅の墓だと思います( 'ω' ;)。
阿梅姫は、白石城をうろうろしている時にさんざん見かけました…。
それが、こちら。逆を向いてしまっていますが、
ずいぶん萌えキャラ。
真田幸村の娘だった阿梅姫は、大阪の陣のあと、落ち延びて片倉家に嫁ぎます。
白石蔵王駅にもいますね…。
見た感じ、まだ中学生ぐらいでしょうか。
大阪の陣で父の真田幸村が戦死したのが16歳ごろで、戦犯となった真田家の家紋・六文銭を堂々と身に着けているので、16歳以下の阿梅姫を描いたに違いありません。
その阿梅姫の霊がこの寺に眠っています。
市内にあんなにあった阿梅姫のキャラクターは不思議なことにこの寺では全く見かけませんでした。
No.106⌒★うーめんのれきし【白石市】
東京から宮城県白石市までは、秋田新幹線・東北新幹線ですぐに行けます。
それにしても、最近は東京駅から北へ向かう新幹線の種類が非常に多くなってて、
あさま、かがやき、はくたか、Max、とき、たにがわ、はやぶさ、はやて、やまびこ、なすの、こまち、つばさの12種類ほど(Maxは2種類?)が東京駅を発着しています。(南行きは3種類)
そのうち、白石市の白石蔵王駅に停まってくれるのはたったひとつ、「やまびこ」のみです!(つばさが連結されたやまびこも)('Д')
北へ向かう新幹線は、普段北行き新幹線に乗らない人にとって、カオスな状況になっています。
いったいどれがどこ行きなのか、、。
「はくたか」とか「なすの」がどの地方の、何に由来する言葉なのかもわからないんです(はくたかは灘の日本酒?)。
例えば秋田新幹線は「なまはげ」、東北新幹線は「いたこ」、北陸新幹線は「ひゃくまんごく」とか名付けてもらえれば分かりやすいんですが。
新幹線ひゃくまんごくが3番線に到着しまーす、とかアナウンスされたら、あ、金沢にも行ってみたいな、と思うはずです。(観光推進)
新幹線かがやきが到着します!のアナウンスでは、金沢に思いを馳せることは1ミリたりともないでしょう。
その新幹線やまびこに乗ってやって来た白石蔵王駅からJR白石駅までは2㎞ぐらい離れています。
歩いて行けなくもない距離。
白石は白石城の城下町ということで、駐輪場も城っぽい形をしています。
白石と言えば、まず思いつくのはうーめん(温麺)ですね。
うーめんは素麺とうどんの間のどちらかというと素麺寄りの麺で(分類はたぶん素麺)、白石市内にたくさんの温麺店があります。
そのうち、白石駅から徒歩4分ぐらいのところにある、
白石うーめん処なかじま本店
ですが、
味は、、、普通のうどんが素麺風になった、というだけかな…。
ただ、セットになっていた、天ぷらはすさまじいおいしさでした(*‘∀‘)ビールが進みます。
とりわけサービス精神がある店で、
食後にコーヒーが付いてますけどいかがですか?→ビール飲んだのでいりません、
のくだりを3人の従業員と入れ替わり立ち代わり繰り返しました('Д')
どれだけコーヒーを飲ませたいんだ。
店に、小学生が書いたものと思われる「うーめんれきし新聞」が壁に貼ってあったので読んでみます。
“うーめんのれきし
温めんを作った人の名前は「いえもん」という人です。
どうして温めんを作ったかというと、いえもんの父は、びょう気で油が入った物は食べれなかったので
油を作わない温めんを作り入を思いやる「温かい心」から温めんとなりうーめんという名前は、
「ウマイめん」からうーめんという名前になりました。”
「人を思いやる」、が「入を思いやる」になってるところなどが可愛い新聞ですが、
温めんは油を使わない食べ物なんですね。
でもセットの天ぷらは油だらけ、、
いえもんの精神はまるで生きていません。
そして天ぷらの方がおいしかったりするのです。
秋田県湯沢市の稲庭素麺も油を使わない素麺で、うーめんに似ています。
でも、うーめんの方が有名になったのは、その名前の奇抜さと、白石市の住民のうーめん愛にあるのだろう、と感じました。
…というわけで、建築は城型のしょぼい駐輪場しか出てこない、
好き勝手言うだけの、「建築遺産のlog!」第106回をお届けしました(*´∀`)