No.154⌒★【千葉市】特別な貝塚、加曽利貝塚
千葉公園から千葉モノレールでぐるぐるっと、桜木駅まで行くと、そこは有名な加曽利貝塚がある駅です。
駅から歩いて10分ぐらい。加曽利貝塚は住宅地の中に忽然と現れました。
加曽利貝塚は、貝塚と言っていますが、集落跡でもあります。紀元前のおよそ2000年間、集落として存在してきました。
今も昔もここは住宅地だったのです。
加曽利貝塚の横には小さな川がありますが、その川はどこへ続いてるかというと、千葉県庁の脇を通って、東京湾へ注がれています。
昔はこの東京湾からの貝を含む物資を、舟で運び込んでいたのがわかります。
かなり広い公園。
1日じゅう、ここで新聞読んだり仲間としゃべったりしていそうな老人が何人かいる以外は、あとはランニングしたり、散歩したり。遺跡公園なのに遺跡目当ての人は見当たりません。
加曽利貝塚は最近、貝塚としては珍しく(初?)、特別史跡に指定された、超重要な貝塚なはずです。
ここは観光地でもない住宅地なので、訪れる人は近所の人ばかりなのです。
左へ行けば、小汚い変な屋根の建物があって、
集落跡の発掘跡の姿を見ることができます。
屋根の形がそのまんま天井に…(´Д`)
右へ行けば、地中式のシャープな建物があって、
シャープな貝塚の断面をみることができるでしょう。
断面におびただしい貝が見える貝塚からは、
ハマグリ、オオノガイ、シオフキ、イボキサゴ、カガミガイ、クロダイ、スズキ、シカ、イノシシなどが見つかったようです。
そのうちシオフキ、カガミガイ、クロダイは今でも東京湾で問題なく採れ、
ハマグリ、イボキサゴはかつて東京湾で採れたものの激減し、今はだんだんと復活しつつあるそうです。
スズキはシーバスという名前で釣り愛好家に釣られているようですね。
つまり、陸上のシカ、イノシシを除いて全て東京湾に今でもいる生き物たちなんですね。
右奥には崩れ果てた竪穴住居。
完全に崩れ果てたのか、1棟はリフォーム中。
縄文時代にはなかったであろう技術レベルで掘っ立て柱の根巻きのようなものが作られていました。
まさか、あの下はコンクリートで固められているんでしょうか。
正面出入口から奥に行けば、大須賀家住宅という古民家があります。
が、金属屋根で中も見ごたえはありません。
コンテンツは揃っているものの、まだまだ施設の更新が進んでいない加曽利貝塚。
特別史跡となったことで、今後変わって行くんでしょうか…。
★今日の貝塚(´Д`)
千葉市は貝塚がたくさん。あっちにも貝塚、こっちにも貝塚があります。
その一つが荒屋敷貝塚。
国指定史跡になっていますが、
ただの広場にしか見えません。
荒屋敷貝塚には、当時のものか近くの住人が捨てたものなのか分かりませんが、
土の上には大量の貝殻が落ちていました…。
千葉駅から、バスで40分以上もかけて行って、ほとんど見るものもなく、
またバスで40分以上もかけて千葉駅に戻って行きました。
徒労感だけが残る旅、それが貝塚を巡る旅です…!(´Д`)(加曽利貝塚のような貝塚は稀)
貝塚は、「遺跡」であるので、低い草しか生やしてないところが多いです。とにかく芝生を生やして草が長くならないように常に刈りまくる。
つまり、
貝塚の周りに家を建てれば、光や風が入り込む健康的な住宅になりますね(*‘∀‘)
貝塚なので、立ち入り禁止になっているところも多く、自宅の隣に半永久的に空地ができあがります。
住宅の購入を考えている方は、ぜひ、どうぞ。
欠点は、ほとんどが僻地にあるということです…。
No.153⌒★【千葉市】千葉公園のまわりをまわる
千葉駅から千葉モノレールで、北へ向かいました。
稲毛区役所もそちらの方にあるけど、結構内陸部にあるんですね。
というか、稲毛海岸駅も稲毛海浜公園も稲毛高校も稲毛民間航空記念館も、稲毛区ではないんですね('Д')
稲毛と言えば海のイメージがあるのに、稲毛区は全くの海無し区です。
千葉モノレールに乗って一つ目の千葉公園駅。
千葉公園は冬になると雪吊りが施されます。
千葉は雪なんか、ほとんど降らないだろうし降っても雪吊りするほどではないだろうに…。
向こうに見える逆さまの電車が千葉モノレール。
ボート池と呼ばれる池にはカモがたくさん浮かんでいました。シベリア辺りから越冬のために渡ってきた、キンクロハジロくんですかね。
千葉公園前交番は屋根が、というより屋根兼外壁が丸くなった変わった建物。
植栽のために、外壁を下部を途切れさせているところも気になります。
正面から見ると普通に見える、この交番。
植栽のために、外壁を一部切欠いているように見えます。
そこまでして、わずかな植栽を…('Д')
さらに先へ進むと、どこから現れたのかおじさんが群れを成して歩いていて、
千葉競輪場がありました(ご飯だけ食べて行った)(禁煙って書いてあるのに煙草臭い店内だった)(昼なのにみんな酒を飲んでた)。
千葉公園を越えた先にはコルテ松波という集合住宅があります。
道路側は無表情なグレー一色のベタ塗りの外壁。
プライベートスペースに入ると階段、廊下、カラフルな玄関と一気にうるさい建物になっています。
この建物は外でなく、内に向いた建物です。
一番上の左の階に行くには、
手前の階段を登って、奥の階段へ行って、渡り廊下を渡って、奥の階段を登ってさらに渡り廊下を渡って行けば着くんですかね(´Д`)
設計したのは空間研究所。
眺めるのはいいですが、住むのはイマイチそうな空間です。
別に悪いというわけではなく、
どの空間を重視するかは建築士によって随分違うのです。
★*.+゚auraの子育て日記(生後3ヶ月半)
最近は寝付きが良くなってきました。
生後間もなくの頃は(今も生後間もなくかもしれんが)、
夜も1時間起きに起きたり、ほとんど寝なかったりして、
2時間ほどしか寝られず会社に行くこともあって、
「終わった…」
と思っていました。(実は仕事中にこっそり寝てた)
それからはひたすら寝活の日々。
夜は暗くする。夜更かしは絶対にしない。
昼と夜の区別を徹底的に付けていきます。
そうすると最近は、5時間ぐらいまとめて寝てくれることもあるので、こちらもかなり寝られるようになりました。
一番大変なのは、やっぱり生後2ヶ月までなんですかね。
それまでは子供が安定してないし、
何より親がまだ子育てを全く分かってない、手探り状態なのです。
No.152⌒★【千葉市】葡萄の別荘。神谷伝兵衛別荘
ラストエンペラーの弟も住んでいた千葉市ゆかりの家・いなげがある山には、
その山は稲毛浅間神社の山なんですが、
神谷伝兵衛の別荘も近くにありました。
ここは古くは別荘街だったので、今でも会社の寮や、ホテルなどが軒を連ねています。
昔は近くにあった海ももう、ほとんど見えなくなってしまったのに…。
今では巨大で騒がしい国道14号の道路とその路面店しか見えない別荘街です。
貴賓あふれる、白い洋館の別荘。
これを建てた神谷伝兵衛さんは、浅草の神谷バーで有名ですね。
(行ったことないけど何となくみんな知ってるバー)
葡萄酒や、神谷バーの代名詞とも言える電気ブランなどの洋酒の製造や販売を明治の早い頃から始め、それで財を成してきたので、住居を洋館にするのも分かります。
この別荘は大正7年築のRC造。
1997年に国の登録有形文化財となりました。
アーチを潜って入る柱廊。
葡萄酒色の階段を登って2階に行きましょう。(1階はボランティアの方の一生懸命な説明を聞いてるうち写真を撮り忘れた(´Д⊂ヽ)
神谷「私は葡萄酒で財を成した、この部屋のコンセプトは葡萄で頼むぞ。
床柱には葡萄の木を使ってくれ」
設計士「分かりました。葡萄の木が立ってるということはぶどう棚も必要ですね。天井でぶどう棚の表現をしましょう。竹で櫓を組んで…」
神谷「それで頼むよ、しかし葡萄が実ってる姿もあるといいな」
設計士「では欄間に実ってる葡萄の絵を書き込みましょう!」
みたいなやり取りがあったのかなかったのかわかりませんが(ないかも)、
部屋全体がぶどう棚の中にいるようなコンセプトで作られています。
床柱はちゃんとぶどうの木。
しかし、天井のぶどう棚に行き着く前に途切れていますね(´Д⊂ヽ。
欄間にはぶどうが描かれています(*‘∀‘)。
床柱+天井+欄間が揃って神谷伝兵衛の葡萄部屋が完成するのです。
★今日のお酒(*‘∀‘)
神谷伝兵衛さんが作った電気ブラン。
当時、「電気」というのは言葉も含めて最新のものだったので、電気ブランという呼び方はすげーかっこいい名前と思われていたのです。
今はあまりかっこいい名前でもないですけどね。
電気ブランは京成稲毛駅の近くにある酒屋さんで買うことができました。(稲毛園だったかな?)
アルコール度数は30度と40度の2種類あり、
味は、
そのまま飲んだらあんまりおいしくなかったですね…。
ブランと言う名の通り、ブランデーをベースに、ワインやジンなどをまぜこぜして作られているようですが、
昔からジンの刺してくるような味が苦手なんですよ。電気でビリビリする感じはジンのせいでしょうか(。ŏ_ŏ)
さらにジュースか何かを混ぜこぜして飲むとおいしく飲めました…。
No.151⌒★【千葉市】変遷ある建物たち 千葉トヨペット、ゆかりの家いなげ
自動車販売店には見えない千葉トヨペットの建物。
温泉旅館とか、どこかの巨大新興宗教の社務所とかに見えますね。でもここは自動車販売店。
ここへ電車で行くなら京葉線稲毛海岸駅か、京成線京成稲毛駅か、総武線稲毛駅から歩いて行きましょう。
この辺りは並行して走る3本の路線があって、よくよく考えて電車に乗らないと遠回りになってしまいます。
千葉トヨペットの建物は1899年(明治32)に建てられた登録有形文化財です。
設計は妻木頼黄、武田五一という有名建築家によるもので、
今は合併を繰り返してみずほ銀行となっている、勧業銀行の本店として建てられたものです。
勧業銀行は東京に本店を置いていて、その後この建物は遊園地の事務所→市役所と経たのちに千葉トヨペット本社社屋となっています。
長い長い旅をしてここまでやってきたんですね…。
左右対称の堂々たる建物。屋根には唐破風、千鳥破風なども乗って、サッシは障子にも見えます。
千葉トヨペットからほど近くの、低い山の裾には、ゆかりの家・いなげ、という家があって、
清のラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の弟、溥潔がたった数か月、仮寓として新婚生活を過ごした家です。
そのあとすぐに満州国皇帝の兄の下、新京に引っ越していったので、ほんのわずかにしか使われませんでした。
皇帝の弟が住んだ住んだと言ってるけど、
この建物は大正初めに誰かの別荘として建てられたもので、別荘として使われていた時代の方がずいぶん長い建物です。
仮寓とはいえ、皇族が住む建物としては質素に見える建物。
建物は平屋で、そうたくさんは宿泊できない広さの建物(使用人はいなかったのか)。
清の皇宮などに比べるとずいぶん質素に見えるでしょう。
新婚でさえあれば、そんなことは気にならないんですかねえ。
愛新覚羅家は、清から満州国の皇族となっていきましたが、海からは遠い地にいたので、
海の近くのこの場所を選んだのかもしれません。
今では道路と埋立地が広がっていて想像するのは難しいけれど、昔は眼前に海が広がっていたはずで、別荘が建ち並ぶぐらい美しい景色だったのです。
ただ、今は汚い汚い道路が見えるばかりです(´ω`)
小さいながらも洋室もあります。
庭。広くはありません。隣は浅間神社。
ちなみに富士山御神体の浅間神社は、東京湾を挟んで富士山の方面を向いて建てられています。(Google Mapを見る限り、少し方向がずれてる気がするけど)
富士山も、おそらくここから見えたんですね。
離れ。
どれを見ても、大正時代の別荘建築の枠を超えないものばかり…。
皇弟の家、と思って行くと質素さにびっくりし、
予備知識無しに行くと、さすがお金持ちの別荘、立派だ、と思うでしょう。
★*.+゚auraの子育て日記
この時期、寒いので、手が冷たくなりますよね。
お風呂に入る裸の我が子にわずかでも冷たい手で触れようものなら、
ギャンギャン泣き喚かれます。
それで、触れる前にお湯で手を温かくしてから、抱え上げたりしますが、
作業をしているうちにまた冷たくなってくる手…(´Д` )
あれいったいみなさんどうしてるんでしょう。いい解決方法が思い浮かばないんですが(初冬なのにすでにつまづく)
おしり拭き温め器があるように、御手手温め器も発売してはいかがでしょう、COMBIさん。
No.150⌒★【千葉市】白と黒の美浜文化ホールと黄昏泣きのお話
千葉市の幕張地区は、どこも区画が大きく取られていて、広い道路、広い歩道、広いオープンスペースの街になっています。
ただ。
そのために。
目的地まで遠い!(`´)
広い道路、広い歩道、広いオープンスペース…どこも通り過ぎるだけでかなり時間がかかります。
鉄道交通が発達してるのにも関わらず、ここは自動車メインの街づくりがなされているのです。
広すぎて徒歩では過ごしにくい街・チャンディガール(チャンディーガル)(コルビュジエ設計)を思い浮かべてしまいました。
検見川浜駅から、
600mほど歩いて行くと、美浜文化ホールの建物が建っていますが、駅からここまで3つの建物しかなかったですね…(´Д`)
美浜文化ホールは小泉アトリエ他が設計したグッドデザイン賞も受賞した建物です。
濃い灰色の縦縞模様の建物。
縦縞にはこだわりがあるようで、窓があっても、途切れさせることはありません!(非常時は脱出できるのだろうか)
裏側は濃い灰色、表側は白い建物でした。
こちらも縦の線が多い外壁ですね…。
縦の線縦の線縦の線縦の線…縦の線を一度意識してしまうと縦縞ばかりが目に付く建物です。
窓枠の形も太かったり細かったりランダムだし、「林」をイメージして作られたデザインですね(たぶん)。
★auraの子育て日記(生後3か月)
黄昏泣き、というだけあって、この頃の赤ちゃんは毎夕毎夕毎夕毎夕毎夕毎夕まあ飽きもせず泣き続けます。
機嫌が良くても豹変して泣き、
疲れてなくてもいきなり泣き出し、疲れてももちろん泣き、
お腹が空いててもお腹が満たされても、何しても黄昏時には泣き喚くのが黄昏泣き。
(防ぐのは新米パパには不可能)
最初は小さく泣き始め、だんだんだんだんその声は大きくなります。(途中寝たりします)
音楽記号で書けば、
cresc.‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
になりますね。cresc.はクレッシェンド。中学校の音楽の授業で習った、「だんだん強くなる」記号ですね。
横に長く伸びた「く」の字の記号で習ったかもしれません。
鳴き声はだんだん大きくなっていき、
20分後ぐらいにはMAXに達します。(´Д`)
立たせてみると、立てないはずのわが子が、蛙飛びをするほど激しく足を動かします。(筋トレにいいのではないか)
ただひとつだけ、
MAX泣きの赤ちゃんを泣き止ませる方法があり、
それは、蛇口から出る温かいお湯に足を浸してやることです。(夏は冷水)
コロッと泣き止みます。
それ以外はとにかく嵐の過ぎ去るのを待つしかありません。そして毎夕毎夕泣き続けるので、こちらも慣れて、少々泣いただけでは動じなくなります。
思うに、
天上の生まれる前の世界では、
夕方4時頃から鬼がやってきて、前世の悪事を責めて拷問を繰り返す時間だったんだと思います…
そう思うほど、あらぬ方向を見ておびえるように泣いています。(;´・ω・`)
No.149⌒★龍なのか竜なのか【龍ヶ崎市】来迎院
漢字変換では竜ヶ崎市の文字も現われます(そして、「もしかして:龍ヶ崎市」とgoogle様に指摘される)。
しかし。
常磐線佐貫駅から市内へ向かう鉄道は「竜」ヶ崎線。駅名も竜ヶ崎駅です。
裁判所は龍ヶ崎支部。
警察は竜ヶ崎警察署。
小学校は龍ヶ崎小学校。
高校は竜ケ崎第一・第二高校…(-""-)。
地名を統一する気が一切感じられませんね…。
”竜”ヶ崎駅前は、とても寂れていて、商店街も軒並み消滅してしまっています。
龍ヶ崎コロッケが有名なはずですが、商店街自体がほぼなくなっているので、どこでコロッケが食べられるのかもわかりませんでした(´Д⊂ヽ
コンビニも無いので、駅のアイスクリーム自販機はほぼ売り切れの大繁盛。
飲み物自販機もこれでもかと置いてあって、30分に1本しか来ない竜ヶ崎駅は待ち人で賑わっています。
竜ヶ崎駅から歩くこと1.5㎞。来迎院というお寺に重要文化財の多宝塔があります。
途中、めぼしいものが何もないので、とても遠く感じました(周りの田んぼに歌声が響きわたっているカラオケ喫茶しかなかった)。
屋根はこけら葺き、1500年代半ばの戦国時代まっさかりの頃に建てられました。
関東北部では古い建物だそうで、室町時代の特徴をよく出していることもあって、重要文化財に指定されました。
他にも”龍”ヶ崎市内の”竜”ヶ崎駅近くには古い建物がいくつかあって、
これは小野瀬家住宅。国登録有形文化財。
ただ、いずれにしても地味な建物たちですね…。コロッケも見つからないし、すぐに龍ヶ崎市を後にしました…。
★*.+゚auraの3分間クッキング
たまにはクッキングでもしましょう(*‘∀‘)
用意するものは、
・玉ねぎ
・その他野菜
・何か肉類
・塩コショウ(少々)
そして。
まずは野菜たちを光速で皮を剥き、鍋に投入しましょう。
肉類は3分間で調理を終えられるためにウインナーとしました(3分間クッキングの意味を取り違える)。
野菜とウインナーをすばやく高火力で炒め、少し塩コショウ。
その後、
野菜たちを皿に盛りつけて、
例の離乳食をその上にかけましょう。
野菜炒め離乳食餡かけ
の出来上がりです(*‘∀‘)(3分でできるかな)。
離乳食って、意外と味付けが濃くて餡かけ状になっていたりして、さらに材料が国産のものが多いので、大人用料理にも使うのはおすすめです。(値段も一つ100円ぐらいでとても安い)
最近は子供の来るべき離乳食期に向けて、離乳食の味見をしたりして過ごしています。
No.148⌒★プスプスで根岸森林公園に行こう!【横浜市中区】
根岸森林公園は、根岸駅か山手駅から、坂道をたくさん登って行ったところにあります。
標高が高くなるにつれて、家の大きさも車の大きさも変わって、経済格差を感じます。
距離はどちらの駅からも一緒だけど、根岸駅からの方が迷わずに行けるかも…しれません。
車で行くと、駐車料金は2時間まで400円、以降30分毎に100円などという料金がかかりますが、桜の季節はかなり早めに行かないと入れないので、その時は電車かバスで行きましょう。
広い公園では、乳母車のプスプスでお出かけしています。
プスプスでのお出かけは、こういう大きな公園を歩き回る時にはとても適しています。
フラットなのでより気持ち良く眠れそうだし、荷物をたくさん積んで行けます。
逆に、電車やバスを乗り継いで行く街歩きには全く適していないと思います。(バスにはいったいどうやって乗り込むんだろう…)
タクシーにも乗れないし、小さい自家用車には詰め込めないし…一種の道楽かもしれません。
根岸森林公園はその名の通り、森林と、草地が広がる公園。
公園はすっかり秋の風景になっていました。
根岸森林公園の北西の一角には根岸競馬場跡(横浜競馬場跡)の建物があります。
設計したのは横浜山手に現存する山手聖公会や、旧丸ビルを手がけたアメリカ人のモーガンです。
世界恐慌が始まった1929年(昭和4年)に竣工しました。
建物横はバスケットボール場になっていて、キッズたちが遊んでいました。
廃墟となった競馬場跡に、ストリートバスケットの姿はよく似合います。
アメリカ人設計の建物に、アメリカのスポーツ。
すぐ後ろには米軍住宅地。
ここは、アメリカなのです。
すぐ近くでは、吹奏楽部女子が楽器の練習をしていて、とてもいい雰囲気でした。
廃墟となった競馬場跡に、プスプスの姿もよく似合います。
すぐ近くでは、フクロウを数羽ベンチに並べてる怪しいおじさんがいました…(´Д`)。
根岸競馬場裏側。表側は、未だに米軍の管轄下にあって、その姿を撮ることはできなさそうです。
根岸(横浜)競馬場は、巨大な競馬場だったことが分かります。
もし、戦争がなく、日本軍に接収されずに(その後米軍に接収されずに)いたならば、
東京競馬場、中山競馬場に並ぶ首都圏第三の中央競馬開催地となっていたんでしょう。
その後一部は返還されたものの、競馬開催にはハードルが高すぎて、しぶしぶ根岸森林公園となりました。
アメリカ生まれアメリカ育ちの廃墟は今でも、米軍住宅地を見下ろしています(早く返して欲しい…)。