No.178⌒★【太田市】新田・世良田・得川・徳川氏のお話
【建築遺産のlog!】第178号
2018年3月17日
今日はずーっと歴史のお話になります。
歴史ある町に歴史の話は必須、避けて通れません…。
新田荘遺跡1:生品神社
生品神社は治良門橋駅から数㎞、もはや車でしか行けないところに建っています。
今日は珍しくレンタカーを借りています。いつもは10㎞ぐらい、平気で歩いてしまうんですけどね。
でも、今日行くところは総延長にして10㎞ではとてもとても済まないぐらいありそうなので車は必須です。
横浜から出発して熊谷駅下車、そこからレンタカーにしました。
生品神社は、「元弘三年(1333年)五月八日卯刻(AM6時前後)に新田義貞が一族を率いて北條氏討伐の義旗を挙げた処」という記録が残っている神社として、国指定史跡(新田荘遺跡)とされています。
新田義貞はここで決起して(150騎しかいなかったという話も…)、諸国の軍勢を吸収しながら鎌倉幕府を打倒する第一歩を記したわけです。
源頼朝も、伊豆で挙兵したときは300騎しか引き連れていなかったので、いきなり負けたり最初苦労していました。
この時代、自軍の兵は少なくても、その「名」に呼応して続々と近隣の豪族などが集まってきて敵を倒すんですね。
ただ、この神社での決起そのものが創作だった可能性もあり、真相は闇の中です。
新田荘遺跡2:矢太神水源
近くにある矢太神水源。
新田義貞の時代から既にあり、新田荘を潤す水源として、これも国史跡に指定されています。
水源というだけあって確かにきれいな水。
新田荘は、東武桐生線、東武伊勢崎線、両毛線のちょうど真ん中付近にある、今ではわずかな家と田しかない場所になっていますが、昔は新田家の領地の中心地でした。
新田荘を出た新田義貞は鎌倉幕府を倒し後醍醐天皇下での新政に参加しますが、その後足利尊氏から所領を没収され、領地は近くの長楽寺の領地と成りました。
新田荘関連の史跡は、こうして、見てもたいして面白くないものが、市内にたくさん点在しています(全部で11遺跡)。
歴史を知っていれば多少は面白いんですが、知らずに行くと、悲劇ですね…。
長楽寺と得川氏の話
長楽寺は数㎞南へ行ったところにあるお寺で、入り口は太鼓門。
長楽寺を創建したのは、新田一族の世良田義季という人で、新田荘のうち得川郷を領したことから得川四郎などと称しました。
この得川氏が年月を重ねる中で徳川氏となり、その中から徳川家康が世に出て日本を治めて行くことになるんですね!
新田荘は新田義貞だけでなく、徳川家発祥の地としても重要な拠点だったのです。
新田義貞が現在でもこれほど神聖視されて祀られているのも、徳川氏のその後の隆盛があったからかもしれません。
まあ本当に、得川氏が徳川氏に繋がっているのかは、怪しいところみたいですけどね…。
今日の話はほとんど本当か嘘か分からない話だらけです。
長楽寺にはたくさんの石塔(宝塔)があって、その中の一つは重要文化財にも指定されていました。
さあ、どれが重要文化財の石塔なんでしょう…?
手前の仏像が乗った塔?
いやいや、違います。あれは大して価値がない塔です。
その後ろの方にある…
このエリンギ型の石塔が重要文化財。
他と比べていったい何がどう重要なのか見た目では全く見分けも付きませんが、後ろに説明板が付いているので、どれなのかはすぐにわかります。
この石塔は裏に建治二年(1276年)の銘があるので、建立年代がはっきりしています。
こういう、文化財の重要度というのは、形がすばらしかったり、難しい技法が使われていたりするというだけでなく、ただ単に「建立年代がはっきりしている」から重要文化財に指定されていたりします。
つまり、もしかしたら、隣の石塔の方が実は知られざる超重要な国宝級の石塔だったりすることもあるかもしれないわけです。
長い年月が経過していく中で銘板が削れて取れてしまったりして、いつ建てられたものか分からないと文化財の中でも無指定の、カスみたいな扱いになってしまうわけですね。
何が言いたいかというと、素人には見分けるのは不可能なので気にしないようにしましょう、ということです(*‘∀‘)
長楽寺で重要なのは、あの石塔だけです!他は見る価値なし(今のところ)。
この宝塔があるあたりは小さな前方後円墳となっていて、歴代の世良田家の墓と伝えられている、とのことでした。
結局、ここもはっきりしたことは分かっていないんですね…。
世良田東照宮
長楽寺のすぐ南にある、東照宮(世良田東照宮)。
これも重要文化財に指定されています。
世良田は徳川氏が発祥の地としている土地。徳川家康を祀る東照宮をこの地に建てることは当然の選択ですね。
東照宮は新田荘遺跡として、国指定史跡の一部ともなっています。
新田氏の本拠であり、新田義貞の挙兵の地で終わるはずだった新田荘。
徳川氏の発祥の地などとされて複雑な経過を辿ってしまいました。