No.108⌒★白石とアテネ【白石市】
阿梅姫のお墓がある当信寺の裏には、
変わった形のトイレがある公園がありますが、
さらに向こうには、
塀もない、いまどきオープンな小学校があります。
1997年の(日本建設業連合会の)BCS賞受賞の小学校、白石第二小学校。
BCS賞は、建築主・設計者・施工者の三者の協力により生み出された優秀な建物を賞するもので、
BはBuilding Owner、建築主のことかな?
CはConstruction、施工でしょうか。
Sは…設計(;´Д`)?…日本語?
語源は謎ですが、何かしら優秀な建物です。
1996年に竣工しました。
雪が降っても雨が降っても使える半屋外の一階の通路(兼遊び場)。
夏の暑い日も涼しく外で過ごせそうな気もします。
このあたりの地域は夏はフェーン現象で暑くなり、
冬は吾妻おろしが吹き荒れて、豪雪は降らないものの寒い気候なので、
三方が壁で囲われた外部廊下は有効的なのかもしれません。
校舎から繋がっている多目的スペースの棟も変わった形。
山形の屋根で雪を落としつつ光だけはトップライトで確保するんですね。
多目的スペースは数列、こういう棟が連なっていて、全校生徒が同時に利用することもできそうな規模です。
とにかく、広い小学校なのです。
白石市の情報センター・アテネがあります。
なかなかの突き出しっぷり。
設計はUPMの八束はじめ氏です。
人はなぜ、こういう建物を造るのでしょうか。
(上:白石市アテネ 中:川口市ますいいハウス 下:千葉市ホキ美術館)
どれもこれもミサイルの発射台のような形をしています。
これらの建物は、男のロマンなのかもしれません。
ちなみに上は横浜港大さん橋に最近やってきた地対空誘導弾ミサイルPAC3の画像です。
横には護衛艦たかみな ………たかみなが停泊していました。
あっ、何度も間違えてしまう……護衛艦たかなみです。
アテネの裏の玄関もすこし張り出してます…(*‘∀‘)
情報センター・アテネはアテネと同じ緯度にあるから名前がアテネだそうです。
白石市は北緯38度0分、アテネ市は北緯37度58分……わずか2分差
緯度が1分違うと1.85㎞違うそうなので、1.85㎞×2⁼3.7㎞しか離れていません。3.7㎞ならまだきっと白石市内ですね。
どちらかというと南国のイメージがあるアテネと、どちらかというと北国のイメージのある白石市が同じだとは思えませんが、それでもアテネでは雪が降ることもあるそうです。
東京都は、
地中海に浮かぶ楽園クレタ島や、暑いときは40度を超えるテヘランなんかと同じぐらいの緯度なんですね…(;´Д`)どうりで暑いわけだ。
アテネの中に入ると、劇場のような大階段があって、
そこでは白石キッズがふたり、夢中でカードゲームに興じていたので写真は撮らずにさっと帰りました…。
No.107⌒★白石城と門と阿梅姫【白石市】
白石に着いて、
うーめんを食べたならば、
まあまずは、お城にでも行ってみましょう。
白石市内は徒歩で旅するのにちょうど良い町です。
白石城もどこから湧き出したのか、外国人の姿を多く見かけます。
他に観光地がなくて、「白石」という名前を知らない日本人も多いというのに、どこで聞きつけてくるんでしょう。
白石城は、伊達政宗の有名な部将、片倉小十郎景綱が関ケ原後に城主となったお城です。
また信長の野望でステータスを見てみると、
片倉小十郎景綱は統率87、武勇77、知略92、政治86。特に知略に優れ、軍師として、謀略なども担当していたと言われます。
本丸へ向かう道は、やたらと狭いんですね…。
人が全くいないのも気にかかります。
しかもかなり大回りして歩かされる道。守備が堅固ということなんでしょうか。
右は高校、左に石垣で見えない本丸。
少し歩くと、やっと現れました。
東日本大震災の時は、壁がはがれたりした被害はありましたが、なんとか持ちこたえました。
外国人たちは、ここの草むらでごろごろしたりのんびりしています。何千キロも旅して何しに来たんだ…。
入館料300円を払って、中へ入ります。
最上階へ登ってみると、、
本丸の入り口はこっちでした…!(´Д⊂ヽ
少し奥まったところにある小さな門に気付かずに、ずっと右手のほうの小道からぐるっと大回りしてきただけ。
どうりで誰もいないはずだ…。
お城自体はあまり見どころがなくて、太い梁とか、わずかに展示してある甲冑とかを見て回ります。
白石城の周りには、城にまつわる建物がいくつかあります。
白石駅から右方面に行った、
延命寺の門は、白石城の厩口門だったもの。
左右に付いている花頭窓はなかったと思うので、当時の姿そのままというわけではないと思います。
白石駅から左方面に進むとある、
当信寺の山門も、白石城の東口門だった門です。
両脇に同じく花頭窓を付けられ、
二階にある開口部は花頭窓の一種の眼象窓と呼ばれるそうです。
眼象とは三方という供物を乗せる台の三方に穴が開いている、その穴の形のことを眼象というそうですが、そのことでしょうか。
眼象とは、宝珠のこと。
宝珠は火炎のように燃え上がった珠のことで、欲しい宝物を何でも手に入れられる珠です(*‘∀‘)。
その眼象窓が大きく開いているのは、そこに太鼓を置いて時刻などを知らせていたためで、
つまり太鼓門となっていました。
夏前なのに紅葉が美しい当信寺の本堂。
裏には、
阿梅の墓と言われる墓があります。
いくつか並んでいますが、削って飲むと虫歯が治るとの言い伝えから、墓石が削られてしまった一番左の墓がおそらく阿梅の墓だと思います( 'ω' ;)。
阿梅姫は、白石城をうろうろしている時にさんざん見かけました…。
それが、こちら。逆を向いてしまっていますが、
ずいぶん萌えキャラ。
真田幸村の娘だった阿梅姫は、大阪の陣のあと、落ち延びて片倉家に嫁ぎます。
白石蔵王駅にもいますね…。
見た感じ、まだ中学生ぐらいでしょうか。
大阪の陣で父の真田幸村が戦死したのが16歳ごろで、戦犯となった真田家の家紋・六文銭を堂々と身に着けているので、16歳以下の阿梅姫を描いたに違いありません。
その阿梅姫の霊がこの寺に眠っています。
市内にあんなにあった阿梅姫のキャラクターは不思議なことにこの寺では全く見かけませんでした。
No.106⌒★うーめんのれきし【白石市】
東京から宮城県白石市までは、秋田新幹線・東北新幹線ですぐに行けます。
それにしても、最近は東京駅から北へ向かう新幹線の種類が非常に多くなってて、
あさま、かがやき、はくたか、Max、とき、たにがわ、はやぶさ、はやて、やまびこ、なすの、こまち、つばさの12種類ほど(Maxは2種類?)が東京駅を発着しています。(南行きは3種類)
そのうち、白石市の白石蔵王駅に停まってくれるのはたったひとつ、「やまびこ」のみです!(つばさが連結されたやまびこも)('Д')
北へ向かう新幹線は、普段北行き新幹線に乗らない人にとって、カオスな状況になっています。
いったいどれがどこ行きなのか、、。
「はくたか」とか「なすの」がどの地方の、何に由来する言葉なのかもわからないんです(はくたかは灘の日本酒?)。
例えば秋田新幹線は「なまはげ」、東北新幹線は「いたこ」、北陸新幹線は「ひゃくまんごく」とか名付けてもらえれば分かりやすいんですが。
新幹線ひゃくまんごくが3番線に到着しまーす、とかアナウンスされたら、あ、金沢にも行ってみたいな、と思うはずです。(観光推進)
新幹線かがやきが到着します!のアナウンスでは、金沢に思いを馳せることは1ミリたりともないでしょう。
その新幹線やまびこに乗ってやって来た白石蔵王駅からJR白石駅までは2㎞ぐらい離れています。
歩いて行けなくもない距離。
白石は白石城の城下町ということで、駐輪場も城っぽい形をしています。
白石と言えば、まず思いつくのはうーめん(温麺)ですね。
うーめんは素麺とうどんの間のどちらかというと素麺寄りの麺で(分類はたぶん素麺)、白石市内にたくさんの温麺店があります。
そのうち、白石駅から徒歩4分ぐらいのところにある、
白石うーめん処なかじま本店
ですが、
味は、、、普通のうどんが素麺風になった、というだけかな…。
ただ、セットになっていた、天ぷらはすさまじいおいしさでした(*‘∀‘)ビールが進みます。
とりわけサービス精神がある店で、
食後にコーヒーが付いてますけどいかがですか?→ビール飲んだのでいりません、
のくだりを3人の従業員と入れ替わり立ち代わり繰り返しました('Д')
どれだけコーヒーを飲ませたいんだ。
店に、小学生が書いたものと思われる「うーめんれきし新聞」が壁に貼ってあったので読んでみます。
“うーめんのれきし
温めんを作った人の名前は「いえもん」という人です。
どうして温めんを作ったかというと、いえもんの父は、びょう気で油が入った物は食べれなかったので
油を作わない温めんを作り入を思いやる「温かい心」から温めんとなりうーめんという名前は、
「ウマイめん」からうーめんという名前になりました。”
「人を思いやる」、が「入を思いやる」になってるところなどが可愛い新聞ですが、
温めんは油を使わない食べ物なんですね。
でもセットの天ぷらは油だらけ、、
いえもんの精神はまるで生きていません。
そして天ぷらの方がおいしかったりするのです。
秋田県湯沢市の稲庭素麺も油を使わない素麺で、うーめんに似ています。
でも、うーめんの方が有名になったのは、その名前の奇抜さと、白石市の住民のうーめん愛にあるのだろう、と感じました。
…というわけで、建築は城型のしょぼい駐輪場しか出てこない、
好き勝手言うだけの、「建築遺産のlog!」第106回をお届けしました(*´∀`)
No.105⌒★空に突き出す三重塔・空に突き出る会社建屋【川口市】
人の多い北区を出て、川口市に向かいます。
川口市も北東の方へ行くと、田畑が広がってのんびりした土地だったりするのです。
王子駅から赤羽駅までJRで行って、さらに15分歩いたところにある、赤羽岩淵駅から、埼玉高速鉄道に乗り換えます。
でも、王子駅から地下鉄メトロ南北線で埼玉高速鉄道に一直線で繋がっていたんですね…( 'ω' ;)
無駄に歩いた15分…
どうやら埼玉スタジアム線と呼ばせたいけど定着しない埼玉高速鉄道赤羽岩淵駅から、5駅目の戸塚安行駅下車。
たった5駅なのに、390円もの運賃を取られます。
降りたあと、気づいたんですが、埼玉高速鉄道の一日乗車券が680円で売っているんですね(´Д`)。
戸塚安行駅を往復するだけですでに損をする計算です。
無駄に払った100円…
埼玉高速鉄道は不親切ですね(#`皿´)(券売機で見落としただけ)
戸塚安行駅は、植木の町として有名なエリアで、他の埼玉高速鉄道線の駅はどこもそうですが、じわりじわりと乗降客が増えつつある、成長中の駅です。
そこにあるスポットはただひとつ。
西福寺。
何でも、この西福寺観音堂に参詣すれば、西国、坂東、秩父札所に参詣したのと同じ功徳があります!
と書いてありますが、もうこういうスポットに何十ヵ所も訪れている僕は、相当な功徳があるんでしょうか…(´ω`*)。
四国の八十八カ所霊場なぞ、
何度回ったことか…
いつも思うんですが、功徳とやらをやたら安売りするお寺が多いのは気にかかります。
周りに高い建物がない三重塔で、美しく感じます。
三重塔は本来、仏舎利を収める墓のようなものなので、日本人が天に届くような塔をつくるのは神道の考えにも近そうです。
…と、ぼんやり考えていました。
埼玉高速鉄道沿線の建物は、以上です( ˙-˙ )
390円払ってとぼとぼ帰ります…。
西川口駅の方にある、ますいいリビングカンパニー
石山修武氏の設計?
西川口駅といっても、風俗街・歓楽街があるのは駅前のごく限られた範囲だけで、あとは閑静な住宅街が広がっていて住みやすそうです。
その住宅街の一角に建っているますいいリビング。
なかなかの片持ちぶりだ、と思ったら、細い糸のような鉄骨が端についていました。
鉄骨というより鉄筋のような細さで、
ただ添えてあるだけ、という感じです。
建物は道路から見て斜めに、主張をするかのように建てられています。
石山修武さんといえば、継ぎはぎだらけみたいなデザインの建物を建ててる印象があるんですが、この建物もやっぱり継ぎはぎだらけの見た目…
屋根もよくよく見てみると変速的な形。
石山氏は完全に、独特の世界観の中に住んでるんですね。
このますいいリビングカンパニーという住宅会社も、石山氏の教え子が建てた会社だそうですが、
その独特の世界観を引き継いでるとすれば、ここが建てた住宅は嫌いな人は嫌い、好きな人はとことん好きになれる住宅なのかもしれません。
No.104⌒★焼失を免れた建物、枯渇を免れなかった滝【東京都北区】名主の滝
東京第一陸軍造兵廠があった一帯は、北区中央図書館や赤レンガの酒造工場など、古い建物が密集した地域となっています。
中央公園にある、この建物(中央公園文化センター)もそのひとつ。
この建物は、東京第一陸軍造兵廠の本部だった建物です。
こちらは煉瓦造でもなく鉄骨造でもないRC造。
空も壁も白過ぎて見えませんが(写真技術の問題?)、軍施設らしく左右対称の威容を誇る姿となっています。
もともと茶系のスクラッチタイル貼りだった外壁を、白好きなアメリカ人によって、真っ白にされてしまったとのこと(-"-)。
アメリカ人は占領期、日本全国の立派な建物をペンキで汚染していったのです。
造兵廠とは兵器の製造や研究を行った施設のこと。
北区の戦災区域図を見ると、北区中央図書館や、この中央公園文化センターの敷地は東京大空襲などでも見事に焼失を免れています。
造兵廠を空襲しないとは、、(*‘∀‘)
威容を誇る文化センターですが、それを隠すように大木がそびえています。
文化センターは、「若さと健康を手に入れよう!ゆっくり学ぶ太極拳」やら、「楽しく踊ろうフォークダンス」やら、「マジックを楽しむ」やら、カルチャーセンターとして機能していて、周辺はややひっそりとしていました。
建物は、造兵廠から米軍施設、図書館と経て、今や余生を送っているようにも見えます。
昭和初期に建てられたものなのでもう築90年近くにもなるのです。
…暑くなってきました。
近くに滝が流れる公園があるというので行ってみます。
名主が江戸時代に造ったという、
名主の滝公園。
なかなか立派な門から入ります。
昼でもなお暗い名主の滝公園。
高低差のある公園内に、
うっそうとした草木と、水の流れがあって、蚊がいる以外は気持ちのよい空間です。
東京23区の駅から近い場所なのに、人の気配がほとんどないのが気になります。
水が流れ着いた先の池はヘドロで濁っていて、残念な気はしますが、のんびりするにはいい公園だと思います。
立川あたりからずっと続く武蔵野台地は、この北区で終点を迎え、
台地の下を流れてきた地下水が、ここでついに外界と出会います(*•ω•)
北区は、23区唯一の酒造会社もあって、
質の良い水が出る、東京では最東端の土地なんですね。
と、
書いて来ましたが、涸れてしまったのか、この滝は残念ながら人工の滝になってしまいました(´Д`)。
ポンプで吸い上げて流すだけの偽物の滝。
ディズニーランドの滝も。あれは実は、魔法の力で噴出させているんではなく、ポンプで流しているんじゃないかとにらんでいますが、それと同じです…|•ω•`)
名主の滝公園の西側には、北区中央図書館や中央公園文化センター、自衛隊駐屯地、さらには成徳大、東京家政大、その周りはマンションやビルがびっしり。
地下水には過酷な環境かもしれません。
23区唯一の酒造会社、小山酒造の伏流水も、涸れないことを祈ります…。
No.103⌒★人口の多すぎる街の普段は落ち着ける煉瓦造図書館【東京都北区】
たまには、
東京23区にでも行ってみるか…
(気が進まない…)
なにせ、人が多いから…。
北区なら、人が少ないだろうということで、北区へ向かいました。
しかし、行ってみると北区は赤羽と王子を擁する、大都市でした(;´Д`)。
人口はおよそ34万人。人口密度は、市町村では最も高いと言われる人口密度の鬼、蕨市(14000人/㎡)よりも多い16000人余り/㎡!
あっさりと抜かれた蕨市の立場は…。
世界を見渡せば、マカオの23000人/㎡よりは少ないですが、
それでもかなりぎゅうぎゅうな窮屈な区だということが分かります。
23区の中では練馬、板橋に次いで田舎かと思ってたのに、そうではなさそうです。よくそんなところに住めるもんだ…。
JR京浜東北線、東京メトロ南北線、都電荒川線が乗り入れる大駅、王子駅から歩いて15分のところには、赤煉瓦の図書館が建っています。
旧陸軍が建てた煉瓦造の倉庫が、佐藤総合計画によりリノベーションされた、北区中央図書館。
陸軍施設の土地は戦後、米軍により一時接収され、今も図書館の隣は自衛隊の敷地となっています。
図書館の中には、雰囲気の良いカフェがあります。
アトリエ・ド・リーブ。白金に本店があるという、ケーキ店です。
でも、この日は、従業員が一人しかいないため、落ち着きのない店内になっていました。
一人しかいないのでホールに厨房にと延々に走り回る従業員。ものすごい音を響かせて氷を砕く従業員(自分で砕くシステムなのか…)。オーダーを取りまくる従業員。そしてさらに走り回る従業員。料理を作りまくる従業員。珈琲を量産する従業員。紅茶も量産する従業員。全く下げられる気配の無いテーブルの上の食後のお皿たち…。
全て一人の従業員の肩にかかっていて、とても落ち着かない店内でした(本店は何とかしてやれよ…)
長い時間がかかって、それでもコーヒーとケーキはやってきます。止まない雨と同じく終わらないオーダーは無いのです。
皿にペイントされてないのが残念ですが出てきただけで満足することにします。
カフェのガラスを隔てたすぐ隣が図書館。
黒っぽい鉄骨がおそらく煉瓦倉庫時代の鉄骨で、新旧入り混じる雰囲気を醸しています。
カフェの逆側の隣は、フリースペースとなっていて、忙しそうな店員を尻目に、みんなお弁当を広げてゆったりと過ごしていました。
古い煉瓦の外壁が、内壁に。
煉瓦の向こう側は図書コーナー、こちら側はカウンターやバックスペースと、やはり図書コーナー。煉瓦の上の2階はキッズ図書コーナー。
書架の上に黒い鉄骨がかかっています。
ただ、全体としては煉瓦倉庫の保存量は少な目なように思えます。
ほとんど新築図書館の趣きで、
ところどころに煉瓦や古い鉄骨が顔を覗かせて、昔ここに煉瓦造倉庫があったことが分かるという程度なのです。
人が多い、北区。
蔵書数などの観点からも、図書館にしては小さな煉瓦倉庫をそのまま壊さずに使う、というわけにはいかなかったのでしょう。
No.102⌒★山城に登りたくない武将たちの主殿【八王子市】八王子城
山城の八王子城は往復で50分ほどの登山。
バスはちょうど1時間に1本なので、登って降りてくるだけならばちょうど良い時間です。
終バスの1本前のバスに乗って来たので、次のバスが終バス…
しかし、
八王子城から下山した時、
御主殿跡
が麓にあることを発見してしまいました…
(´Д`)
八王子城の観光は実は2段構成。
若干の登山を伴う、頂上の本丸を目指すコースと、駐車場・バス乗り場からほとんど水平に、御主殿跡へ向かうコースの2コースあります。
御主殿跡と本丸は向かう方向が全く違うのです。
御主殿跡のことは全く知らなかったので、泣く泣く終バスは諦めます。
駅までバスで15分程度の道のりだったので、何とかなるでしょう。
(山登りでもう足はガクガク…)
行きに通った八王子神社入り口の鳥居。
ここから上へ登って行くと、本丸跡の頂上へ。
しかし、御主殿跡はこの手前にあるガイダンスセンターみたいな建物の脇を通って左側に行った先にあります。
あまり整備されてない本丸コースに比べて、ばっちり整備された御主殿コース。
踏んでもビクともしない橋に歩きやすい通路*.+゚。
実は、本丸跡に行く人は、城マニアの方だけなのかもしれません…(こちらが王道)。
同じ位置に昔、橋があったことが分かり、そこに橋をかけてあるそうです。(曳橋)
どんな橋の姿だったかは分からず、こんな橋ではなかったかもしれません。
片方の土台が盛大に崩れています…(;´・ω・)。
橋を渡った先の石垣はそのままだそうです。
元々は土に埋まっていたというので、この美しさは相当にクリーニングをしてつくりあげたものだと思います。
御主殿跡は、礎石だけの広場になっていました。
ここは、城主であった北条氏照(not氏輝)の居館であった場所で、山上の本丸ではなく、麓のここで政務などをとっていたものと思われます。
北条氏照は、北条氏3代目氏康の3男。信長の野望でいうと統率83、武勇80、知略73、政治62でどちらかというと戦に強い万能型の部将でした(外交も得意)。
八王子城が豊臣軍により落城させられた頃、氏照は小田原城にいましたが、小田原城の開城降伏後、切腹して果てました。
八王子城はその後家康により廃城となり、今に至ります。
主殿があったと思われる場所の周りには、庭園跡が保存されています。
池の跡もあったというので、枯山水ではなく、池を眺めながら、過ごしたのでしょう。
この庭園は主殿から見ると、北向き(北西向き?)に配置されています。
南からの太陽光が庭を照らし、順光で美しい石や池や、その奥の城山が見られたことでしょう。
落城時、御主殿は北条氏照の妻を始めとして、次々と身を投じました。(さっきの曳橋の上流の方)
そのあと、主殿の池には山上の悲劇が投影されたのです…。