No.91⌒★鴫飛んだロングビーチ【大磯町】
湘南発祥の地
だという、大磯に来ています。
この看板を見ても、何がどうやって「湘南」が発祥したのか、全くわかりませんでしたが…(;´Д`)
分かったのは、中国の湖南省に湘南というところがあったということだけです。あとは解読できず。
とにかく湘南がここで発祥してしまったようです。
全長6㎞にも及ぶ、まさに大磯のロングビーチの海岸線を擁する大磯は湘南の中心地と言ってもいい場所ではあります。
どこまでもどこまでも続く海岸線…。
茅ヶ崎や江の島から遠いここは、サーフィンではなく、釣りの人の方が多いようです。
大磯駅前には、
大磯迎賓館
と呼ばれる建物があります。
無情にもCLOSEDのお知らせがあってシャットアウトされましたが、
メニューを見ると、
一番安いピッツァランチ2400円から始まり、スペシャルランチ3600円、
ディナーコース6000円から10000円ぐらいまでのまあまあ高い価格帯です。
レンタルスペースとして借りることもウェディングをすることもできる、国登録有形文化財の邸宅です。
迎賓館から5分ほど歩くと
鴫立庵
の建物群があります。
湘南発祥の地の碑の隣!
鴫立庵のパンフレットによると、
鴫立庵室は歴代庵主の住まいとして使われていました。
鴫立庵は単に風流韻事の庵室であったばかりでなく、活発な文化運動の職場でもあった。
崇雪という人が西行の歌にちなんで「鴫立庵」び標石を立てたと伝えられこの標石が湘南という言葉の始まりとか…。
などという文が並んでいて、肝心のどういう家なのか、庵主とは何なのか、という記述が無くさっぱり分かりません。
さては、湘南発祥の碑の説明文を書いた人と同じ人が作ったのか…。
起承転結の、転と結しか書かない上級者向けの碑とパンフレットです(-_-;)。
初級者は、Wikipedia大先生に教えてもらいましょう。
Wikipedia大先生がおっしゃるには、
鴫立庵は俳諧道場。
日本三大俳諧道場の一つとされる。
敷地内に建てられた石碑にある銘文「著盡湘南清絶地」から、「湘南発祥の地」とされることもある。
名称は西行の歌「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」による、とのこと。
全8行しかないWikipedia大先生のお言葉なのに、知りたいことが全て分かりました!
中ではコーヒーと共にあんぱんを食べることができます。
あんぱんは大磯駅前のパン屋「パンの蔵」のあんぱん。
奥にいるのは、吉田茂の絵ばかり並べて売っているおじさんです。
この町にある吉田茂の絵はだいたい彼の手によるもの、とぼくは睨んでいます。(大磯町は吉田茂の別荘地として有名)
鴫立庵の建物は俳諧人の家だけあって質素に造られています。
敷地内には西行他の歌人たちの歌碑が多数設置してあり、車の音はうるさいもののゆったりとコーヒーなどを飲んで過ごすことができます。
庵の横の川はすぐそこの海に流れ込んでいて、河口にも住むという鴫(シギ)は昔はたくさんいたのでしょう。(鴨ではない)
神奈川県だけでもハマシギ、ヘラシギ、オグロシギなどたくさんの種のシギが絶滅危惧種として指定されていました。
鴫立庵の周りも都市化が進み、鴫の住む場所はもうありません…。
No.90⌒★住宅街の現代建築たち【さいたま市浦和地区】蔵の灯
さくら草公園は、JR西浦和駅から、西方向。
東方向へ行くと、
ビストロ蔵の灯
があります。
ここは、藤野高志氏が設計しました。藤野氏は生物建築舎という怪しい名前の設計事務所を主宰している方です。
1階がレストラン、2階は見なかったけどギャラリー用途などで使える江戸時代に建てられた蔵の改修です。
思い切って玄関を大きく切り取っていて、蔵にしては中は明るい空間でした。
やはり、横に広げるよりも、縦に広げる方が光は多く取り込めるようですね。
室内の壁は藁がたくさん詰まっている土壁の内装。
天井からも光が降り注いできます。
行ったのはランチで、
ランチはお肉御膳、魚御膳、松坂牛ステーキ定食など4種類から選ぶことができました。
これはお肉御前。
たしか、松坂牛のスジ煮込みがメインの日替わり定食です。肉は口の中でとろけます。
煮込みは煮込んであるのを入れるだけ、
左側は刺身やカルパッチョなど新鮮な魚たちで、盛り付けるだけ、ということなのか驚くほど早く料理が運ばれてきます。
デザート付き1800円は高いのか、安いのか…。
基本は洋食の店だと思いますが、
温かい日本茶、居酒屋風おしぼり、刺身、白ご飯、箸で食べるスタイル、と見ていくとやっぱり和食かも。
ワインは、信州善光寺ワインの「ミュゼ」が出てきました。
食材はもしかすると全て、日本産のものなのかもしれませんね。
ここでは少し、いかつい感じの店員さんが出迎えてくれます。
駅から遠く、お昼は空いているので気軽に行けると思いますよ(*・ω・)/
隣の隣の隣ぐらいには、やはり同じく生物建築舎の彼が設計した長屋があります。
隣の隣の家も多少気になりましたが、民家なのでスルーします。
さっきの蔵のレストランは「鹿手袋の蔵」、
こちらは「鹿手袋の長屋」という作品名のようです。
「鹿手袋」は地名で、「しかてぶくろ」と読みますが、昔は「しってぶくろ」と呼んでいました。
尻手袋とも書けるので、川崎市の尻手のように、尻の方、奥の方という意味でしょうか。袋は袋状の土地(たぶん)。
雨の日は水浴びができそうなくらい、大胆に吐水口が造りつけられています。
外壁を濡らして汚したくないので、こうしたのでしょう。豪快にも見えます。
薄いグレーと、緑の木はいいバランスですね。
サントリーニ島の白壁の横の樹木みたいに、
普通の木でも、美しさが引き立ちます(外壁がきれいなうちは)。
反対側はギャラリーなどの店が建ち並んでいました。さっきの木が低い壁の向こうで頭を覗かせています。
店舗エリアと、住宅エリアが1枚の壁で柔らかく分離しているようでした。
以上、鹿手袋の藤野高志作品群の一角でした。
駅から遠すぎて、全体的に人がいないので、お店たちが存続できるのか、とても心配です…。
No.89⌒★悲しみのさくら草公園【さいたま市浦和地区】
サクラソウのつぼみ
埼玉県のさくら草公園
にやってきました。
サクラソウは、天然記念物の中でも、特別天然記念物に指定されています。
サクラソウは、北海道から九州までたくさん咲いていた多年生の草ですが、最近の都市化の影響を受けて、指定地などに細々と生き延びているのみなのです。
さくら草公園は、
歩いて20分ほどで行くことができます。
そこに見たものは、完全に開花前、どころか土しか見えない光景でした…(´Д`)。
土だけかと思ってたら、
よくよく見ると、つぼみが出てきています。
その後、そのつぼみがこんな風に開いて草っぽくなっていくんですね。
外側は赤いのに中は緑色で、なかなか渋い成長をしていきます。
3月始めではまだ早すぎたようです。
サクラソウの見ごろは、4月中旬~下旬の普通の桜よりも遅いぐらいの時期だ、ということを耳にしたので、1年後、再び行ってみることにします。(上の内容は1年前のできごと)
サクラソウの花
さくら草公園へは、
歩いて20分ほどで行くことができます。(仕切り直し)
着いてみて、そこにあったのは、見渡す限りの、草!(;´Д`)
しかし、よくよく目を凝らしてみると、
草に埋もれて咲いていました。
これがさくら草ですね…。
いったい、ここはサクラソウを保護しているのか雑草を保護しているのか、分かりません。
緑の草を楽しむ場、と考えれば楽しめるかもしれません。
近づいてみると、きれいな花です。タンポポもフレームイン。
きれいなんですが、とても地味なスポットなんですね、さくら草公園…。
もっと、芝桜みたいに地を埋め尽くす、一面の花を期待していました。
あまりにも人の手を入れないので、他の草の方が盛んに育ってしまっていて、
背の低い、サクラソウはそこに完全に埋もれてしまうのです。
サクラソウ属サクラソウ科のヨーロッパの品種は、現地ではプリムラと呼ばれています。
その昔、ギリシャでは、恋人を失ったパラソリス青年が悲しみの果てに死んだので、
母親がプリムラに変身させてしまったそうです(;´Д`)。
まったく何があったかはわかりませんが、悲しい花であるようです。
花言葉は「初恋」「希望」そして、「青春の喜びと悲しみ」です。
幸せが芽生えた時からそれが打ち砕かれるまで、そんな花なのです。
ぼくも今日は、一面のサクラソウを期待していったので、その希望ははかなくも打ち砕かれました…。
サクラソウもサクラソウで、ツボミから花になるのを夢見て成長してみたら他の草に埋もれるばかりで、
その希望ははかなくも打ち砕かれてしまうのです…。
…以上、建築が全く出てこない建築遺産のlog!をお送りしました(*‘∀‘)
No.88⌒★金谷港周辺のグルメは良い建築で…保田小・合掌館【富津市・鋸南町】
JR内房線で一転して南下します。
保田駅で下車。
ここには有名な
道の駅 保田小学校
があります。
保田小学校の道の駅は、NASCA代表の古谷誠章氏を筆頭に、設計組織ADHの渡辺・木下氏、ワークショップの北山恒氏、空間研究所の篠原聡子氏と、誰もが知っている設計家グループによる設計なのです!
たぶん、誰もが………知ってますよね。
まあ、とにかくその筋では有名な方々ばかり集めたドリームチームのようなグループです。
エントランスはまだ不安定に立っている竹林。
内装外装を設計者毎に割り振って、ここはこの人、あっちはあの人、という風に担当分けしたみたいですね。
でも、なんとなくテイストが似てる設計者たちなので、なんとなく、うまくまとまってると思います。
小学校校舎は金属質な外装で、現代的に生まれ変わりました。
イタリア料理店のDa Pe GONZOという古谷誠章氏が担当したという店でピザを食べましたが、やはり少し高めの、観光地価格でしたね。
ピザ+サラダで2000円ぐらい。目が飛び出るほど高いというわけではないけど、少し高いかな、と思う値段です。
ここまでの交通費が、すでに往復3000円ぐらいかかっているので、そう思うんでしょうか(;´Д`)。
2階では平均台なんかも置いてあって、みんなそれに乗って遊んでたりします。
ハイサイドライトの明るい増築部の空間に、昔のままの元校舎部分。
ここは北山恒氏の担当部分ですね。
ここには他に農産物等が買えるショップや、飲食店3軒、ギャラリーから宿泊施設まであります。
教室に泊まれる宿泊施設は3500円からととても安い価格設定です。
温浴施設も併設されているので快適に過ごせると思います。
さて、東京湾フェリーが到着する港、金谷港の方まで戻って来ました。(保田小に行った日とは違う日だけど…)
ここには古民家のカフェがあります。
元は茅葺だったのであろう、立派な屋根を金属板で覆った大きな民家建物。
カフェえどもんず
という名前の店ですが、合掌館という名前もついてるようですね。
白川郷の合掌造りとは形が少し違うものの、屋根勾配は白川郷並です。
脇の道は雰囲気のいい、石塀が続いた小路ですが、桜も咲き誇っていました。
石塀の小道。このあたりの石塀はやや南国風になっています。
合掌館・カフェえどもんずは、
ここから入ります。
節付きの柱が使われたむくり屋根のエントランスです。
建物の中にも、「武士道」の本やら皇国なんちゃらという本が置いてあったりします。
そのほかはとにかく雑多な店内です。
がらくたか、すごいものか分からないものがたくさん置いてある入り口。
入り口を入っても、店員さんは来てくれません。
ここを勝手に上がって行きましょう。
右は売り物の何か。
左は売り物の飲み物。
後ろにも、手作り感のある、売り物の何か。
その他は全部がらくた。
11時半ごろ行って、半分以上は席が埋まっていました。
比較的、入りやすい店だと思います。
カフェタイムはもっと混むのかもしれませんね。
今は、ランチタイムですが、
ランチっぽいメニューは、ここにはありません。
無数にあるコーヒー(無数にはあるが、数種しか飲むことができない)や紅茶と、バウムクーヘンのセットを食べるしかない店です。
バウムクーヘンは、一輪サイズとハーフサイズがありますが、
手前が一輪サイズ、奥がハーフサイズ。
どちらにしてもとてもおいしそうにやってきます!
「地元・金谷で焼き上げた、バウムクーヘン」と書いてありますが、やはり、金谷にあるバウムクーヘン専門店といえば金谷港の船着場近くにある「見波亭」のことかな?
店内では延々と、このカフェがNHKで取り上げられた時のビデオが流されてました。
その時、常連客(本人)役で出ていた人がいるんですが、ふと、隣を見るとその人が座っていました。
No.87⌒★醤油県千葉県の宮醤油。【富津市】
富津市
へは、東京湾フェリーで向かいましょう。
東京・川崎・横浜から行くと、本当は、高速バスで向かうのが早いんですが、
たまに渋滞していたり、隣の席に知らない人がいるのが嫌だったり、席を予約する面倒さや、トイレに行けないし、もしかすると運転手さんが居眠りするかもしれないし、
何より、お酒を飲みながら行くことができないバスは楽しくないんです(つω・`。)。
東京湾フェリーにはいわしバーグやつみれなど、酒に合うものも売っています。
とはいえ、この日は風が強い日で船が大きく揺れて、酒を飲むどころではありませんでしたが……( ノД`)
「富津」はむかーしむかし、
弟橘姫が東京湾に身を投じたあと、その袖が流れ着いたので布流津と呼ばれ、それが富津になったようです。
都から東征に来た日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が走水(東京湾のあたり)を渡る時に大嵐に遭い、
后の弟橘姫が身を捧げて海の怒りを鎮めたことで無事に上総国へ上陸できました(富津市HPより)。
后が亡くなったのなら全く無事ではない気がしますが、
その後、后の袖が流れ着いたのが富津だということです(隣の袖ヶ浦市、習志野市袖ヶ浦に流れ着いたという説も)。
誰か、犠牲になれば今日のこの荒れた海も収まって気分が悪くならずに済んだんですかね…。(次の日まで気分が悪かった)
フェリーで金谷港についたら、電車で北上して佐貫町駅下車。
このあたりの外房線、内房線の駅はどこもこんな雰囲気の駅です。
無骨な感じの外階段と、同じようなデザインのホームと駅舎。
この駅から歩いて10分のところに、
宮醤油店
の建物があります。国登録有形文化財の建物。
多くは、明治から大正期にかけての建物ですが、わずかに一番左の店蔵だけが江戸後期の建物だそうです。その右の建物は奥蔵で大正初期、その右はたぶん「離れ」で大正中期、その右は西蔵で明治初期の建物です(*‘∀‘)。
建てられた時期はバラバラ。
宮醤油の創業は江戸後期。そこから少しずつ建て増していったと思われます。
千葉県は醤油県。
千葉県野田市のキッコーマンや、千葉県銚子市のヒゲタ醤油、ヤマサ醤油など、醤油生産地が県内に広く分布しています。
塩と、大消費地(東京)と、物流(利根川など)の良さで醤油王国になっていったのです。
そしてその多くは濃口醤油です。
店舗は明治中期の建物です。出し桁造り。
宮醤油店は、9棟もの建物が有形文化財に登録されているのです。
左から「南房総だいだいポン酢」、丸大豆の「かずさむらさき」。
スーパーとかで買えば、600円以上はする品なのに、ここでは400円台で買えるのよ、
と力説しておりました!
二本買っても、1000円以下。大変安い価格です。
価格は安いですが、日本では高貴な色の紫色と同じ「むらさき」という名前の高貴な醤油の名前が付けられているのです。
No.86⌒★多摩の始まる町・酒の町【福生市】
居酒屋に置いてある日本酒が「獺祭」だったら、なんだかがっかりしますね。
今は獺祭がはやっているらしいので、どこもかしこも猫も杓子も獺祭を置きたがる居酒屋が多いのです。
獺祭は、山口県の酒造会社が作るお酒で、獺とは、かわうそのこと。かわうそが採った魚でお祭りをしています。
味はとても良くいいお酒なんだと思うんですが、どこに行っても獺祭を置いているので、またか、と思います。
流行ってるから、売れるから、獺祭を置いとくか、みたいな軽い気持ちで並べているだけなんじゃないでしょうか。
少し前は、どこへ行っても八海山や越のなんとかというような銘柄、つまり新潟の酒ばっかりでした。
日本には、各地においしい地酒があります。いろんな地域のお酒を愉しむのがいいと思うんですが。
というわけで、今日は酒蔵のお話です…。
★★
福生市には、
嘉泉田村酒造
という酒蔵があります。
「嘉」はすばらしいとかめでたい、の意。
すばらしい泉から作ったお酒、ということに違いありません。
地形図を見ると、田村酒造があるあたりは、奥多摩から続く山筋が終わる場所に当たります。
山をくだってきた地下水は、ここでようやく地上に現れたんでしょうね。
東京に昔、飲料水を運んだ玉川上水も、このあたりから出発します。
ここの酒造蔵や前蔵など計5種の建物や塀が国登録有形文化財になっています。
田村酒造は、とはいえウェルカムな感じではないので、入れそうにありませんでしたが、
近くにある、
旧ヤマジュウ田村家住宅
はウェルカムな感じでOPENしていました。
1902年明治35年の建物。
先ほどの田村酒造の分家筋の家で、建物は下屋が設けられていてきれいな建物です(平屋建)。
しぶい色合いの商家の家という感じです。
建物は、多くの古民家に見られるように、向かって右が土間の家人用スペース、左が客間。で、ここは客間。
瓢箪型の襖引手。
鶴の形の釘隠し。
立身出世、長寿などが、ここでは祈られています。
本家の方の田村酒造のエントランス付近の昔の姿の絵もありました。
本家田村酒造の敷地の今と配置は一緒、門など変わっているところは変わっていますね。
ヤマジュウ田村家住宅の目の前には、純福音福生教会の建物が建っています。
ピンク色の洋館の建物。屋根などは、和の雰囲気も感じられます。
ここは、昔、郵便局だったので、何となく教会らしからぬ、変わった造りになっています。
煙草の販売コーナーみたいなところとかありますね。切手でも、売ってたんでしょうか。
福生市にはもう一つ、
石川酒造(多満自慢)
という酒造会社があります。
こちらも、向蔵、雑蔵、新蔵など計6種の国登録有形文化財。
二本の欅が並んだ、巨大な夫婦欅が目を引きます。
江戸時代末期頃に建てられたという、長屋門ももちろん有形文化財。
屋根には珍しく反りも入っています。
門の前では猫が一匹で日向ぼっこしながら、虎視眈々と餌待ちをしていました。
中央には、酒造会社らしく杉玉が美しく、ぶら下がっています。
この門の先は、どうやらプライベート空間らしく、入ることはできません。
敷地内には、ビールメインのイタリアンレストランや、地酒主体の和食料理店、売店がありました。
そして、たくさん買ってしまうことになるのです…( 'ω' ;)。
限定販売の「多満自慢 晴の陽」、復刻版ラベルのビール、酒粕のケーキ。
そう、ここは、ビール醸造も行っているのです。
東京都内にある酒の銘柄だけでも、知らないものばっかりです。
No.85⌒★生える市役所【福生市】
福生市
福生市は人口が5万数千人の小さな町ですが、市域の1/3が米軍横田基地になっているので、その面積は7㎢しかありません。
他の町にもまたがっている横田基地もまた、面積は約7㎢なので、ほぼ同じ大きさです。
福生市民は、巨大河川の多摩川と、横田基地に挟まれた、幅1㎞ぐらいの狭い地域に住むことを余儀なくされています。
JR青梅線の電車が、福生駅に到着すると、ふっさー、ふっさーとアナウンスされるのに、女子高生が爆笑してました…( 'ω' ;)
もちろん、福生の地名の由来は「ふっさふさ」ではなく、塞ぐ、とか蓋とかの言葉に由来するそうです(詳しくは福生市HPを見てね)。
福生市は、北からの敵を防ぐ、最前線基地だったのです。
西は、大岳山などがある奥多摩の山地、東は狭山緑地がある、これまた山地に挟まれていて、北の敵が入ってこれないように塞ぐには、最適な土地なのかもしれません。
防ぐという言葉も塞ぐから来てるのかもしれませんね。
福生市役所
福生市役所は2005年の平成17年に建てられました。
1、2、3、4、5…12階建?
ではなく、5階建の建物でした。
山本理顕設計工場による設計。
タワー2棟が建っていますが、それらは低層部でつながっています。
窓がたくさんあって大きな建物に見えます。
丘の広場
と呼ばれる低層階の屋上では、
棟と棟に挟まれた空間は芝生敷で、ピクニックしたくなるような空間が広がっていますが、人の姿は全くありません。
入っては、いけないのかな……?
福生市は、東京都とはいえ、田舎なんですね。
ピクニックをしたい人たちは、みんなこぞって立川の巨大パーク・昭和記念公園に出かけて行ってしまうんでしょうか。
建物の色が赤ピンクなので、補色の緑色の芝生と良い組み合わせ。
建物と芝生以外、幟やら、広告塔やら、汚いものが何もないところが、とてもいいと思います。
高層棟は、地面から生えるように建っていました。
ガラスも斜めになっていますね。というより、斜めになってることをアピールするように設置されています。
無情にも、福生市役所は、日曜日は完全閉庁していました。
普通、少しは開いているものだと思うんですが完全シャットアウト。
図書コーナーとか、市民ホールとか、開いてるところはなく、
開いているのは、直接入れる、信金のATMコーナーだけです。
入り口が塞がれている、福生市役所から引き返すしかありませんでした…。